概要
島津四兄弟の次男・義弘の居城で、生涯において最も長く(約26年間)拠点とした。
永暦元年(1160年)に築かれたと伝わる。日下部氏、北原氏、ついで相良氏が領有していたが、島津氏が横川城を押さえると相良氏は撤退。永禄7年(1564年)に貴久が義弘を城主とし、「真幸院(まさきいん)」と呼ばれる一帯を支配した。木崎原合戦において義弘は飯野城から出陣し、伊東氏を打ち破る大戦果を挙げている。豊臣氏に降伏後は義弘嫡男・久保の居城となる。
シラス台地を利用した「南九州型」の城郭で、本丸・二の丸・三の丸、物見曲輪・射場などの曲輪で構成されており、城の三方に川が流れ険しい崖、北方に山があり強固な造りになっている。西側4kmほどにある加久藤城とは連絡路で結ばれている。
現在は一部公園として整備されており、物見曲輪跡に建てられた展望台からは、木崎原の古戦場を含む一帯が見渡せる。