概要
島津四兄弟の次男・義弘が青年期に領地とした「真幸院(まさきいん)」の城。川上忠智を城代に、義弘の正室(後妻)・実窓夫人が居住した。
応永年間(1394年~1428年)に北原氏によって築かれ当初は「久藤城」と呼ばれていたが、島津氏領有後に東側に「中城」と「新城」が拡張され「加久藤城」となった。
元亀3年(1572年)の木崎原合戦において、伊東方は最初加久藤城を標的としたが、最も守りの堅い北側に誘い込まれたため攻略に失敗、退却した所を義弘以下島津軍に包囲されて壊滅した。
独立した丘陵上にあり、城の周囲が断崖となっている要害。虎口(写真4)などの遺構が残り、東に4kmほどの飯野城とは連絡路で繋がっている。麓には義弘長男・鶴寿丸の墓がある。
山頂にある神社まで車道は通るものの、道が細いため途中で下車し徒歩で進むことを推奨。