概要
高城・耳川合戦(天正6年11月12日)において、大友宗麟が本陣を置いた場所。
天正6年9月、日向への本格侵攻を開始した大友宗麟は、本隊を田原紹忍に任せ、自身は海路にてこの地に入った。
「フロイス日本史」によると、宗麟の日向侵攻の大きな目的の一つはキリスト教の理想王国建設であり、日向に居を移し、ヨーロッパの法と習慣でもって統治することを考えていたとされている。寺社は徹底的に破壊され、その材木は新たに建設される教会の資材として用いられたという。
一説によると地名の”務志賀”(むしか、現在は無鹿)は、音楽を意味するラテン語の「musica」から取って宗麟が名付けたともいわれている。
高城・耳川合戦の2日後、敗報を聞いた宗麟は恐怖で狼狽し、財宝や大砲などを放置したまま早々に豊後に退去したという。なお、後年、島津家久と上井覚兼らが旧跡見学に訪れている。
現在、跡地には妻耶大将軍神社が建てられている。
参考文献
『フロイス日本史 7 宗麟の改宗と島津侵攻』訳:松田 毅一/川崎 桃太(中公文庫)
『大友宗麟と府内の町』(大分市教育委員会)
『上井覚兼日記を読もう8 天正13年(1585)8月条』新名一仁
ほか現地案内等