九州平定に乗り出した豊臣氏に対し、島津氏が決戦を挑んだ「根白坂合戦」の古戦場。
戸次川合戦(天正14年12月12日)において豊臣の先遣隊を破った島津氏だったが、戦線全体では思うように成果は上がらず、士気も低下していた。翌天正15年には豊臣勢の増援が続々九州に上陸し、総勢20万前後の大軍となり、豊臣秀吉が筑後・肥後方面、弟の秀長が豊後・日向方面の二手に分かれ進攻を開始。島津氏に従属していた勢力も次々に離反し、島津軍は多大な損害を受けながら豊後から撤退した。
同年3月末、日向に入った秀長軍10万余は、山田有信以下300の兵が籠る
高城を包囲し、51箇所の陣地を築いて薩摩本国との連絡を遮断した。特に高城から南の丘陵・根白坂に、宮部継潤・黒田孝高らが強固な陣(砦)を構築。深さ二間(約3.6m)、幅が三間(約5.4m)の堀と土塁を設け、更に柵を立て多数の鉄砲を配置し、島津の後詰に備える態勢を敷いた。
4月17日、約2万の島津軍は根白坂に夜襲を行うが、圧倒的な火力と陣地に阻まれ突破できずにいる所を、藤堂高虎や黒田勢・小早川隆景勢に攻撃され、島津忠隣(島津歳久 養子)が戦死するなど大きな損害を出し、撤退を余儀なくされた。
この一戦で島津方の組織的抵抗力は失われた。5月6日、義久は剃髪して秀吉の元に見参し降伏。以後も義弘ほか一部が各地で抵抗を続けるが、5月末には全ての将兵が降伏し、島津氏は豊臣氏に敗北。従属の道を歩むこととなった。
現在も空堀が一部残存している。
参考文献
『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁(星海社)
『高城合戦について』白岩修(高鍋町中央公民館 歴史講座)
『高城合戦歴史読本』白岩修(木城町教育委員会)
『高城合戦ウォーキングマップ』(木城町教育委員会)
『根白坂夜襲戦』山内正徳
ほか現地案内等