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沖田畷古戦場
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おきたなわてこせんじょう
沖田畷古戦場
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概要
島津家久と有馬鎮貴(晴信)・天草連合軍が、北部九州の有力大名である龍造寺隆信と激突した「沖田畷合戦」(天正12年3月24日)の決戦地。戦死した隆信の供養塔が残る。
天正12年、龍造寺氏からの圧迫を受けていた島原国衆の有馬氏に対し、島津氏は救援を行うことを決定。有馬氏の取次としてかねてより援軍に積極的だった家久は、主力を待たずに島原へ渡海、龍造寺方の島原氏が守る「浜の城」を攻撃する。
この動きを察知した龍造寺隆信は、2万5千とも5万7千ともいわれる大軍を自ら率いて島原へ進出。これに対する連合軍の総兵力は6~7千程度と全くの劣勢であり、予期せぬ一大決戦を強いられた島津兵は「色を失い、互いに顔を見合わせ、唇も髭も震わせ、死の汗を流すに至った」と言われている。
龍造寺勢の猛攻を凌いだ島津隊は家久の号令の下、決死の突撃を敢行。突出していた龍造寺本陣に切り込んだ川上忠堅(島津重臣・川上忠智の子)が隆信を討ち取った。龍造寺軍は二千以上の戦死者を出して壊乱し、合戦は連合軍の大勝利に終わった。
工場(整備場)敷地内にあるため位置が分かりづらい。ルートは案内看板がある下記①か、途中まで車で進める②。
参考文献
『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁(星海社)
『島津家久・豊久父子と日向国』新名一仁
『再検証 沖田畷合戦』中西豪(学研プラス 歴史群像2020年3月号)
『完訳フロイス日本史 9』松田毅一(中央公論社)
ほか現地案内等