概要
島津・有馬連合軍が龍造寺軍を破った「沖田畷合戦」やその前哨戦の舞台。島原国衆、安富氏の居城。
天正11年、有馬氏の救援要請を受けて八代より渡海した川上久隅を大将とする島津軍は有馬軍とともに深江城を攻撃するも、島津重臣新納忠元の嫡男・忠堯が戦死するなど攻めあぐね、有馬方への不信もあり撤退する。翌12年の沖田畷合戦でも戦場となり、深江に向かった龍造寺方の舟20艘が、有馬氏に味方するポルトガル船に拿捕されている。
合戦で龍造寺方が敗れると安富氏は城より脱出し、佐賀へ落ち延びた。
遺構は殆ど残っておらず、一角に石碑がある。
参考文献
『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁(星海社)
『島津家久・豊久父子と日向国』新名一仁
ほか現地案内等