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戸次川合戦」(天正14年12月12日)において、戦死した豊臣方武将・長宗我部信親の討ち死にの地。
信親は土佐国の大名、長宗我部元親の嫡男。長宗我部氏は一時は四国統一に迫るも、天正13年(1585)四国平定に乗り出した豊臣秀吉に敗れ臣従、かつて敵として相対した仙石秀久・十河存保と共に四国連合軍を形成し、豊臣軍先手として九州に上陸した。
大友方の
鶴賀城を救援する為、戸次川(現・大野川)を渡河した所を島津勢に攻撃され、乱戦の中、御供衆数百名と共に信親は討ち死にしたと言われている。
なお戦後、府内から船で撤退しようとする元親に対して家久は川上久智を使者として送り「信親を討ったことは戦いの中でやむを得ないこと」と弁明するとともに、干潮のために出航することができない長宗我部勢を見逃している。
近隣に、同じく討ち死にした十河存保の慰霊碑と共に
墓が、また
成大寺には御供衆の碑が建てられている。
車の場合、中央分離帯があるため、大分市方面(北側)からでないと近くまで行けないことに注意。
参考文献
『<島津と豊後侵攻戦>九州制覇目前 戸次川の合戦の行方』桐野作人(学研パブリッシング 歴史群像デジタルアーカイブス)
『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁(星海社)
『本藩人物史』
『戸次川の合戦 史跡めぐり』(戸次校区健康といやしの里づくり実行委員会)
ほか現地案内等