薩摩大隅に続き日向を制した島津氏が、当時九州最大の勢力であった大友氏と激突した「高城・耳川合戦」(天正6年11月12日)の決戦地。第一次高城合戦とも言われる。
一般に「耳川で起こった合戦」として認知されているが、主戦場は高城周辺である。
当時、日向において勢力を誇っていた伊東義祐は島津氏の攻勢を受け、血縁である大友氏を頼り豊後に落ち延びた。元来島津氏とは協力関係にあった大友氏であったが、これをきっかけとして島津と敵対に傾く。
天正6年4月、島津方に寝返った縣(あがた、豊後-日向の国境)の土持氏の攻略を皮切りとして、5万の大軍を動員し、同年9月日向への本格侵攻を開始。大友宗麟は本営を務志賀(延岡市無鹿)に置き、田原紹忍が率いる本隊は南下して同年10月、島津方北端の要衝・
高城を包囲した。
これに対し島津方は太守の島津義久が出陣、総力を挙げて兵を動員(2万~4万といわれる)して救援に向かい、高城より南の台地に主力を展開。義久本陣は根白坂に置き、決戦に臨んだ。
大友軍は軍議が一致しないまま、主戦派の田北鎮周に引きずられる形で戦端を開いた。奇襲により島津方先鋒を打ち破った大友軍だったが、島津軍の逆襲に合い潰走。島津勢は北に約30km離れた耳川まで大友勢を追撃し、大友側は鎮周や佐伯宗天など大将格多数を含む三千余もの戦死者を出したといわれている。
高城・耳川合戦は戦国島津氏にとって極めて重要な合戦の一つであり、九州全域に多大な影響を及ぼした。島津氏の存在感が高まったのはもちろんのこと、大友氏の領国支配に動揺が生じ、それに乗じて肥前の龍造寺氏が勢力を拡大。島津・大友・龍造寺のいわゆる「三国鼎立」の状況を生み出すきっかけとなった。
参考文献
『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁(星海社)
『高城合戦について』白岩修(高鍋町中央公民館 歴史講座)
『高城合戦歴史読本』白岩修(木城町教育委員会)
『高城合戦ウォーキングマップ』(木城町教育委員会)
『高城川合戦』山内正徳
ほか現地案内等