豊後制圧を目的とした島津家久率いる島津勢と、豊後大友氏の救援のため派遣された、豊臣先手衆である仙石秀久・長宗我部元親ら四国連合軍が激突した戦い。いわゆる「九州征伐」の緒戦であり、島津氏が大勝した。
天正13年(1585)10月、豊臣秀吉は島津氏・大友氏に停戦を命じ、翌14年には「九州国分け案」を提示。島津氏がこれまでの戦いで得た肥後・肥前・豊前・筑後・筑前の領域を没収し、これに従わない場合は討伐すると通告。島津氏にとって、到底受け入れられない内容であった。
豊臣との決定的な対立を回避したい当主の義久であったが、家中の意見を押さえきれず、島津氏は秀吉の要求を黙殺することに決し、本格的な大友攻めが開始された。
天正14年10月、島津家久率いる日向口の島津軍は豊後国内に進入。12月には府内の南に位置する要衝である
鶴賀城(写真3枚目左)を包囲した。これに対し、豊臣先手衆の軍監である仙石秀久主導の元、長宗我部元親・信親父子、十河存保ら四国勢と大友義統率いる豊後勢、合わせて5,000~6,000の軍勢は後詰に出陣し、同月11日、鶴賀城の西を流れる戸次川(現在は大野川)対岸の
鏡城(写真3枚目右)に入城。家久軍18,000は城の包囲を解き、これを迎え撃った。
この時、初めて相対する上方の軍勢に対し島津勢は色めき立ち、家久は戦いを前に「我は戦死すると覚悟を決めた。皆も一人も生きて本国に帰ろうと思うな」と激を飛ばしたという。
翌12日、両軍は激突。合戦の経過は史料により異なるが大勢として、渡河中あるいは渡河後に伏兵の攻撃により混乱に陥った豊臣勢は、島津勢の多方面からの攻撃を受け総崩れとなり、信親や存保含む多数が討ち死にした。
この勝利により家久軍は府内へ進軍、これを制圧した。家久らはそのまま越年したが、豊臣の援軍が続々と九州に上陸し戦況も悪化。天正15年(1587)3月には肥後口の島津軍とともに豊後を撤退した。
結局豊後侵攻は一時的な勝利に終わり、豊臣氏の全面介入を招いた島津氏は、
根白坂合戦の敗戦を経て降伏。以後豊臣への臣従の道を歩むこととなった。
参考文献
『さつま人国誌3 戦国近世編』桐野作人(南日本新聞社)
『<島津と豊後侵攻戦>九州制覇目前 戸次川の合戦の行方』桐野作人(学研パブリッシング 歴史群像デジタルアーカイブス)
『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁(星海社)
『戸次川の合戦 史跡めぐり』(戸次校区健康といやしの里づくり実行委員会)
ほか現地案内等