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戸次川合戦」(天正14年12月12日)の直前に、豊臣先手衆の四国連合軍と豊後大友勢が入城した城。
豊臣先手衆の軍監だった仙石秀久は、「防備を固めよ」という秀吉の指示を破って積極策をとり、島津軍に包囲されている
鶴賀城救援のため、対岸に位置する鏡城に入城した。軍議の場において秀久は敵前渡河を主張、これに長宗我部元親は反対するも、秀久は強硬に押し切ったと言われている。
戸次川(現・大野川)を渡河した豊臣勢約6千は、島津の伏兵の攻撃を受け混乱した所を包囲され大敗。この戦いで長宗我部信親や十河存保らが戦死した。
遺構は残っていない(実際の場所は異なるという説もある)が、大野川や鶴賀城など合戦の舞台が見渡せる展望台がある。登城口より所要時間片道5分程度。
参考文献
『<島津と豊後侵攻戦>九州制覇目前 戸次川の合戦の行方』桐野作人(学研パブリッシング 歴史群像デジタルアーカイブス)
『島津四兄弟の九州統一戦』新名一仁(星海社)
『戸次川の合戦 史跡めぐり』(戸次校区健康といやしの里づくり実行委員会)
ほか現地案内等