天下統一を果たした豊臣秀吉の新たなる野望・大陸進出により勃発した明国および朝鮮王朝との戦い、文禄・慶長の役において拠点となった「名護屋城」。当時大坂城に次ぐ規模を誇り、周辺に点在する百数十の諸大名の陣屋と城下町とあわせ急速に発展した「軍事都市・名護屋」の中核でしたが、戦争終結に伴い僅か7年でその役目を終え江戸初期には破却された、幻とも言える城です。
名護屋城や文禄・慶長の役に関する資料を展示する「佐賀県立 名護屋城博物館」では現在、企画展「鬼島津が遺したもの ─島津義弘と文禄・慶長の役─」(2020年9月18日~11月8日)が開催されています。本展の模様について、企画展の担当学芸員、村松洋介さんのお話を交えながらレポートをお届けします(文中一部敬称略)。
※企画展展示物は撮影不可のため、テキスト中心のレポートとなります。
──最初に、企画展の開催経緯についてお聞かせ下さい。
村松:当館では平成28年度から特別史跡「名護屋城跡並びに陣跡」保存整備事業の一環で「島津義弘陣跡(特別史跡)」の発掘調査を実施しています。調査は今年度も実施しますが、発掘調査成果は少しずつではありますが蓄積されており、それを多くの方に知って頂きたいと考え、企画展を開催することとしました。
後付けですが、昨年、島津義弘公没後400年にあたり、鹿児島や宮崎で多くの展覧会やイベントが開催され、我々もそれらを拝見・拝聴し多くの知見を得ることができたこともそれを後押しして下さったと考えます。
自身、大の義弘ファンであるという村松さん。小学生の頃からプレイしている「信長の野望シリーズ(コーエーテクモゲームス)」では島津家を選択するなど思い入れが深く、企画展実現に向けて強い意気込みもあったとか。
村松: と言いつつも、実の所、私の専門は弥生・三韓社会の交流に関する考古学です。具体的には日韓両地域の青銅器や土器の作り方やお墓の構造、葬送儀礼の比較から両地域の初期国家形成過程を探るという研究を行っています。
名護屋城博物館に着任してからは、名護屋城や唐津地域を対象とした近世から近代の旅行、遺跡になったあとの名護屋城などを研究したりもしていて、節操がありません(笑)。去年までは義弘陣跡の発掘調査を担当していました。
──企画展のタイトルについてですが、「義弘が鬼石曼子(グイシーマンズ)と明・朝鮮から恐れられたという逸話は事実ではなく、『鬼島津』という異名は後世の創作である」という指摘が近年、島津氏関連の書籍等で見られるようになっています(※)。そうした中あえて「鬼」を冠した狙いは何かあるのでしょうか?
※当初「鬼島津は後世の創作であることは歴史ファンの中で浸透しつつある」と表記しておりましたが、客観性を欠く表現だったため現在の記述に変更致しました 謹んでお詫び申し上げます 2020年10月14日修正
村松: ご指摘の通り、管見の限り中国・朝鮮側の史料に「鬼島津・鬼石曼子」の呼称は確認ができず、むしろ1764年に朝鮮通信使に書記として随行し、和書の翻訳作業を行った元重挙は「鬼島津」という単語を見て意味不明である、としています。日本側史料でも、島津家文書等では記載が無く元禄年間の「九州記」など一部に散見されるのみです。
もっとも、幕末から明治にかけて一般化したと推測される「鬼島津」のイメージは、漫画やゲームで描写されているように現代において固定化されているのもまた事実です。ですが、実際の義弘は猛々しさばかりではなく、様々な魅力があり、そうした面を展示や図録で伝えることが企画展の開催趣旨の一つでもありました。それ故に、「鬼だけじゃない島津義弘」の実像を強調するために、逆説的な表現としてあえてこのようなタイトルにした次第です。…純粋に「鬼」というワードのインパクトを狙った、という側面もありますが(笑)。
展示では、戦国島津氏の勢力拡大期から始まり、秀吉による九州征伐を経て文禄・慶長の役に至り義弘が「伝説的存在」になるまでが、国宝・島津家文書をはじめとして、様々な文書・絵図・出土資料等とともに解説されています。
展示史資料(抜粋)
- 島津家文書 『御朱印御感書五通 高麗唐島御戦功ニ付』
- 島津家文書 御朱印御感書五通[高麗唐島御戦功ニ付]五通
- 島津家文書 後編舊記雑録 巻三十三「高麗入日記」
- 島津氏分国太閤検地尺
- 船大工樗木家関係資料 安宅船図
- 刀:無銘 号 朝鮮兼光
- 高麗陣敵味方戦死者供養碑(拓本)
- 心岳寺講島津歳久位牌
※展示替えあり
──どれも貴重で中々見ることのできない原本史資料が多数展示されていますが、その中でも特に目玉といえるものを是非お聞かせ下さい。
村松:島津家文書の豊臣氏五大老連署状です。
この資料は、秀吉亡き後、義弘から泗川の戦いで挙げた戦功の報告を受けた兄義久が五大老に報告し、それ受けた五大老からの感状の部分と、日本側の軍勢の朝鮮半島からの撤退の手順を細かく指示したものです。
微妙な関係であったことが容易に予想される義久・義弘の兄弟関係が「御家」の面目躍如のために連携し、それによって島津の武功は日本全国に知れ渡り昇職、加増だけではなく、後世にもそれが語り継がれることになった証拠となる文書だと思っています。 ※展示は10月15日まで
展示から良く分かるのが、島津氏にとって文禄・慶長の役とは言い換えれば「豊臣政権下での受難の時代」であるということ。村松さんはこの時期の島津氏の境遇を理解する上で、「国分け」がキーワードであると指摘します。
村松:元来独立性が高いとはいえ、曲がりなりにも義久を頂点としていた島津氏を、秀吉は義久・義弘・久保・伊集院忠棟、それぞれに知行地を与え大名級の領主が並立する状態を作ってしまいます(佐土原の家久(豊久)は独立した豊臣大名に)。これが家中の分断や混乱を産み、文禄の役での島津氏の緩慢な動きや梅北一揆を招くことになります。不信感を持った豊臣政権は太閤検地により島津氏領国への直接的な介入を行い、家中の不満は更に高まるわけですが、これにより義弘らの大名権力は強化され、皮肉にも朝鮮への派兵や物資輸送が容易になります。
そうした状況下にある島津氏にとって、泗川における奇跡的な勝利は単に軍事的な価値だけでなく、島津の武威を大いに高め、豊臣政権下における政治的立場を向上させるものとなりました。更には、義弘の系統が本宗家となった薩摩藩政下で形成されていった「義弘伝説」の象徴と位置づけられ、朝鮮役での故事に基づく伝統芸能も数多く生まれました。今でこそ義弘の武功として最も有名なのは関ヶ原の撤退戦──いわゆる「島津の退き口」ですが、昭和初期頃までは泗川合戦こそが代表的な武功として強調されていることが、当時の書籍などからも見て取れます。
文禄・慶長の役や名護屋城での動静、その前後の島津氏の置かれた状況、義弘の晩年、後代への影響…。これらを通して義弘の新たな人物像や魅力を浮び上がらせる──まさに、「鬼島津が遺したもの」というタイトルに相応しい企画展だということが分かります。
また関連展示として「島津義弘の城館」も併催されています。ここでは義弘が「関わった」──在城だけでなく改修等に携わった──城館を絵図・文書・縄張り図・現地写真で紹介、国外ということもあり中々知る機会が少ない「倭城」もしっかり触れられており、「さすが名護屋城博物館!」と感じました。
以上のように、見所盛り沢山の「『鬼島津』が遺したもの」。
とは言え、新型コロナウイルスの影響もあり、「行きたくても行けない…」とお嘆きの戦国島津ファンは多いのではないでしょうか?
そんな方には、公式WEB上で通信販売されている企画展図録の購入をオススメします。展示品の写真は勿論、各種解説・コラムも収録され、企画展の内容をほぼ網羅していると言っても過言ではない充実の一冊です。名護屋城博物館が発行する研究紀要最新号(第26集)には九州大学大学院比較社会文化研究院教授・中野等氏の論考「『鹿児島県史料 旧記雑録』からみた当該期の島津家」が収録されていますので、ぜひ合わせて購入してみては。
──最後に、陣跡の発掘調査ほか、今後の島津氏関係の調査研究の展望についてお聞かせ下さい。
村松:これまでの調査で陣跡の残存状況や大まかな性格に関するデータを得ることができましたので、今年度からは、残存状況の良い箇所についてより詳細なデータを得るために調査個所を絞り実施する予定です。私は今年から調査担当ではありませんが…。将来的には陣跡の価値をできる限り明らかにすることで、保存を図り、多くのお客様が安全に楽しめるよう整備を行う予定です。
今後も発掘調査進展にあわせ現地説明会が実施される予定とのことで、引き続き要注目ですね。
島津義弘陣跡 主郭部南面石垣。陣跡の領域は約5万㎡に及ぶ大規模な陣屋である。
企画展は10月16日(金)から後期に入り一部展示替えがあり、また18日には村松さんによる企画展関連講座と、薩摩焼でのお茶のおもてなし(有料)が開催されます。会期は11月8日(日)まで。戦国島津ファンの皆様はぜひ足を運んでみて下さい!
開催概要
会期 | 2020年9月18日(金)~11月8日(日) |
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会場 | 佐賀県立 名護屋城博物館(企画展示室) |
開館 | 午前9時~午後5時(月曜休館) |
観覧料 | 無料 |
今後の関連行事 | ①なごや歴史講座 村松洋介 氏 「『鬼島津』が遺したものー島津義弘と文禄・慶長の役ー」 10月18日(日)13:30~15:00 参加費無料・当日受付 ②薩摩焼でのお茶のおもてなし 協力:茶道宗偏流唐津支部 料金:500円(税込)・先着50名 |