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しまづくめ

花見酒

島津貴久 ~合戦に明け暮れた波瀾の生涯~ 



 2019年の島津義弘没後400年を皮切りに、毎年のように戦国島津の”記念イヤー”が続いている昨今。昨年2021年も、2人の人物が節目の年を迎えました。一人は特集記事でも紹介した島津義久の娘「亀寿」。もう一人が、没後450年を迎えた島津貴久しまづたかひさです。

 貴久は言わずと知れた島津四兄弟の父であり、また歴史教科書においても戦国島津氏の面々でほぼ唯一登場します(※ただし鉄砲伝来やキリスト教伝来の文脈においての登場)。何より「戦国大名」として島津氏が勃興し薩摩・大隅の統一に進む過程で、当主として中心にあった人物です。
 しかしながら「九州統一戦」を戦った息子たちや、父であり戦国島津氏の思想面にも後々まで強い影響を及ぼした父・忠良(日新斎じっしんさい)に比べると、その事績にスポットがあたることは少ないのが実情です。

 改めてその生涯や果たした役割を、中世島津氏研究の第一人者で、「島津貴久-戦国大名島津氏の誕生-」(戎光祥出版)の著者でもある、新名一仁にいなかずひと氏に解説頂きました。
(文中写真およびキャプション しまづくめ編)

【関連記事→「島津忠将 ~貴久の弟にして右腕、その生涯~」】


はじめに

 戦国大名島津氏の祖とされる島津貴久(1514~71)の生涯は、常に戦いのなかにあった波瀾の57年であった。これを時期区分すると、5期に分けられる。

《Ⅰ期》
生まれて島津奥州家の養嗣子に祭り上げられ、失敗におわる幼少期(~14歳)

《Ⅱ期》
相州家・奥州家・薩州家三つ巴の家督継承戦争に勝利し、「三州太守」を自称するにいたる青年期(~27歳)

《Ⅲ期》
大隅国府から同国始羅郡を制圧する時期(~44歳)

《Ⅳ期》
伊東・肝付両氏と島津豊州家・北郷氏の抗争に関与し、島津包囲網との抗争を繰り広げる時期(~53歳)

《Ⅴ期》
家督を嫡男義久に譲って出家し、「伯囿」となのった晩年(~58歳)


 それぞれの時期ごとに、貴久の生涯を追っていきたい。


Ⅰ期:幼少期の挫折

 貴久(幼名虎寿丸)は、永正11年(1514)5月5日、薩摩国田布施(鹿児島県南さつま市金峰町)にて、島津忠良(のちの日新斎、1492~1568)と、島津薩州家成久の娘(?~1566)との間に誕生した。




田布施城(亀ヶ城)跡」(鹿児島県南さつま市金峰町尾下)。島津相州家の初代・友久が築く。父の忠良や兄弟、また子の義久ら、戦国島津氏の主要人物は伊作家の拠点である伊作城で生まれている一方、貴久は忠良が相州家を相続し田布施城に入った2年後にこの地で誕生している。跡地は亀ヶ城神社となり、貴久誕生の地を示す碑と亀石が遺されている。

 父忠良は、島津氏御一家ごいっか(庶子家)の伊作いざく善久の嫡男である。しかし、幼くして父と祖父を失い、母常盤が田布施を領する御一家で、伊作氏の血を引く島津相州家そうしゅうけ運久(忠幸、一瓢斎、1468~1539)に再嫁し、忠良は相州家・伊作氏の家督を兼ねることになり、日置市吹上町から南さつま市金峰町を領する、薩摩半島西海岸の有力領主となっていた。
 永正年間(1504~21)、薩摩・大隅・日向三州太守(守護職)を相伝してきた島津奥州家は、島津忠昌の自害後、その子息忠治・忠隆が相次いで早世し、末子忠兼(のちの勝久、1503~73)が家督を継承した。しかしこの間、守護家の権威は大きく低下し、「三州大乱」と称されるほど混乱に陥っていた。

 そんななか、御一家・国衆の間ではあらたな秩序形成を模索していくようになり、期待されたのが有力御一家の島津相州家と島津薩州家さっしゅうけであった。
 相州家は15世紀の島津奥州家当主忠国の長男友久を祖としており、御一家筆頭の家格にあった。薩州家は、家格は相州家に劣るものの、薩摩国和泉(出水市)・阿久根(阿久根市)、同国加世田別府・川辺郡(南さつま市・南九州市川辺町)という広大な所領を領すると共に、貴久の母方の祖父成久(1460~1520)・叔父忠興(1486~1525)は、娘たちを有力御一家・国衆に嫁がせ、姻戚関係に基づく人的ネットワークを築き、隠然たる勢力を誇っていた。特に忠興は、娘を守護である奥州家忠兼に嫁がせてこれを後見し、嫡男実久(1512~53)を忠兼の養嗣子にしようと目論んでいたようだが、大永5年(1525)に没してしまう。

 これ以前から、相州家忠良に「指南」を依頼していた守護島津忠兼は、大隅国始羅郡での反乱に対応できず、相州家忠良に支援を求める。大永6年(1526)11月、伊集院(日置市伊集院町)にて忠兼は忠良と会談し、忠良の嫡男虎寿丸(13歳)を忠兼の養嗣子とすることを条件に、反乱鎮圧に乗り出す。忠良率いる相州家勢は始羅郡に進攻し、帖佐本城(平山城、姶良市鍋倉)の辺川筑前守忠直を討ち、鹿児島に凱旋する。
 翌大永7年正月から3月頃、忠兼は虎寿丸に家督を譲らざるを得なくなり、4月には出家して伊作に隠遁した。忠良から家督継承を迫られたと見るべきであろう。この時、虎寿丸が元服したとの史料もあるが(『樺山玄佐自記』)、真相は不明である。

 しかし、同年5月、討ち取られた辺川忠直の代わりに帖佐に配置していた島津昌久(忠良義兄)が、加治木の伊地知重貞・重兼父子とともに薩州家方に寝返り、反旗を翻す。忠良はすぐさま出陣し、これを鎮圧するが、これは罠であった。この間、挙兵した島津薩州家実久は、伊集院を攻略して伊作に隠居していた奥州家忠兼を担ぎ出し、六月末には鹿児島を奪還する。忠兼は同月「三州太守」を自称しており、貴久に譲ったはずの家督を〝悔い返した〟ようである。忠兼は、まもなく「勝久」と改名している。
 貴久は老中土持政綱らの助けにより、命からがら鹿児島から脱出し、田布施に戻っている。享禄2年(1529)には、日向国飫肥・櫛間(宮崎県日南市・串間市)の有力御一家島津豊州家忠朝の仲介により、鹿児島で和平会議が開催され、相州家忠良の代理義父一瓢斎らと薩州家の治部大輔(忠将ヵ)の間で和睦が成立し、忠良による家督奪取は失敗に終わる。


園田清左衛門屋敷跡(鹿児島県鹿児島市小野)の「聖宮跡」。鹿児島を脱出した貴久が匿われたとされる。なお義弘の妻、後の宰相殿は一説には園田清左衛門の娘とされ、現地には案内板がある。
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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