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「歴史群像 8月号」豊久特集によせて ~ 桐野作人氏インタビュー

雑誌「歴史群像」8月号(7月5日発売・学研プラス)では、歴史研究家・桐野作人先生の島津豊久に関する記事が掲載されました。それに関連して、豊久についてじっくり伺いたく、6月某日、都内某所にて桐野先生にインタビューさせて頂きました。





── 今回島津豊久を取り上げたのは、来年に控えた生誕450年の影響でしょうか?
そういう訳ではないですが、豊久は近年、注目度が上がってますからね。以前からまとまったものを書きたい武将の一人だからでしょう。
豊久は薩摩島津家の分家、佐土原島津家の若き当主として31歳という短い人生のほとんどを戦と共に過ごしてますが、江戸時代の軍記物、「倭文麻環(しずのおだまき)」「島原軍記」などに「美男」だったという記事があり、それも注目度の高さのひとつですね。

名乗りは「島津忠豊」か、「島津豊久」か

── 「豊久」名乗りが「忠豊」よりも有名ですが、実名の変遷がわかる史料などはあるのですか?
豊久は元亀元年(1570)6月11日(本城家家譜)に薩摩の串木野城で誕生しました。幼名は豊寿丸、通称を又七郎と言い、天正12年の沖田畷の戦いで初陣を迎え、その後元服します。じつはそのときの実名は不明です。実名を調べるには、本人の発給文書の署名を見るのがいちばん確実です。それで史料を探してみたのですが、私が見つけられたかぎりでは19点と少なかったです。もっと探せば出てくる可能性があります。

それらによれば、遅くとも朝鮮出兵が始まる文禄2年(1593)までには忠豊と名乗っていることが確認できます。そして朝鮮出兵の期間はほとんど、通称の又七郎、実名は忠豊です。慶長3年(1598)末に帰国しますが、その戦功を称されて、又七郎から中務大輔という官名に名乗りを変えます。

それで肝心の実名ですが、豊久名乗りは19点のうちわずか1点のみです。それは文禄3年(1597)頃と思われる外祖父にあたる樺山玄佐に宛てた書状1点のみで、それからしばらくしてまた忠豊に戻り、あとは関ヶ原合戦直前までずっと忠豊のままです。だとすれば、関ヶ原合戦でも名乗りは忠豊だったかもしれません。

つまり、判明しているかぎりでは、実名は忠豊→豊久→忠豊という流れになります。関ヶ原合戦までの半年ほどの間に豊久名乗りの史料を見出せないと、「島津豊久」よりも「島津忠豊」と呼んだほうがいいのではないかと思います。豊久ファンには意外かもしれませんが。余談ですが、豊久の生母は島津宗家の重臣で姻戚にあたる樺山玄佐の娘で、彼女の母(玄佐の妻)は宗家中興の祖とされる日新斎忠良の娘・御隅です。つまり豊久は日新斎の外曾孫にあたります。

── 豊久の花押(相良家文書二)は残っているようですが、発給文書の原本もあるのですか?
確実なのは肥後相良家に残る豊久文書7点は原本というか本物だと思います(自筆かどうかは不明)。あと、自筆だと思われるのが都城島津家に伝わる豊久筆と伝わる断簡(※1)くらいでしょうか。

※1 断簡とは現代でいうメモの様な物で、豊久の断簡は和歌の書く時の走り書きではないかと思われる。和歌自体は残ってないものの、この断簡でどうやら豊久は和歌を嗜んでいたことが伺える。豊久に和歌を教えていたのは父・家久という可能性も(家久は舅の樺山玄佐より和歌の古今伝授を受けている)。

豊久の交友関係

── 豊久と仲の良かった武将などはいたのでしょうか?
豊久書状は相良長毎(※2)宛てが多く、相良氏に親近感を持って接していたのは確かですね。その理由は、豊久の祖母(家久の母:橋姫)の肘岡氏(肥地岡氏)は元々相良氏の一門だったようで、肱岡一族が相良名字を名乗る事を許してくれるよう長毎にお願いしている書状もあります(※3)(相良家文書二:813号)。

※2 初名は頼房。相良氏の第20代当主・肥後人吉藩の初代藩主。島津氏と激しく対立し、後に従属した相良義陽の次男。幼少の頃、島津氏の人質となっていた時期も。

※3 豊久の曾祖母(家久母・橋姫の母)の生家が肘岡氏(肥地岡氏)で、相良氏の嫡流との説があり、橋姫の従兄弟の肱岡豊前兵衛(家久・豊久重臣)は後に相良善兵衛頼直と改名している。(相良家文書、西藩烈士千城録(二))。また、橋姫は本田丹波守親康の娘だが、幼少の頃親康が討死した為、母の生家である肘岡氏(肥地岡氏)で養育された為、肘岡氏(肥地岡氏)娘との記述される事もある。

── 慶長の役での南原城の戦いでは豊久と相良長毎は陣が隣同士ですし、案外一緒に行動していたこともあるかもしれませんね。
その他には忠恒の筆頭家老である伊勢貞昌宛てが多いです。豊久と同世代だから仲が良かったんじゃないかと思いますが、貞昌は当時から宗家の家督を継ぐ予定の忠恒(のち家久)の側近ですから、貞昌宛ても忠恒に披露してもらうために書いたといえます。忠恒は豊久より年下ですが、庄内の乱でも同陣しており、親しかったようです。もっとも、忠恒を目上と見ていますね。

── 豊久といえば「関ヶ原」ですが、その他の戦い等での動向や面白いエピソードなどあるのでしょうか?
豊久の初陣は天正12年(1584)の沖田畷の戦いですが、若干15歳で父の家久に従軍します。その前に北薩出水の愛宕神社に参詣して、戦勝祈願と豊久の初陣の首途のために神楽を奉納する事になったのですが、神前に座っていた豊久が、幣を受け取るために立ち上がると、直垂の袖が板敷にひっかかり足がもつれしまい、転倒しそうになったのです。出陣を前に不吉の兆しかと周囲の人たちが不安に思ったとき、副将の新納忠元が機転を利かし即興で謡をし、豊久の窮地を救ったとの話があります(薩藩旧伝集補遺)。

実はこの時の様子が謡となり今も出水に残っています。ちなみに出水は私の郷里です。忠元の謡がずっと残っていて、私も子どもの頃、歌った記憶があります。 天正14年の戸次川の戦いでは同じく父家久に従軍してますが、じつは動静はよくわかってません。





島津本宗家との関係、義弘への親愛

── 父・家久死後の豊久の様子や、相続後の本宗家との関係はどのようなものだったのでしょうか?
戸次川の戦いの翌年、大守島津義久は秀吉に降伏しますが、それに伴い父家久も、日向野尻で豊臣秀長と対面し降伏した直後の6月5日に急死してしまいます。この時豊久は18歳、大きく慟哭したようです。
家久の死については、豊臣方による毒殺説(本藩人物誌、島津国史、フロイス日本史など)がありますが、義久が家久に亡くなる10日ほど前に送った書状(旧記雑録後編二、338号)には家久が秀長に従って上京し、豊臣大名になるのを懸念している様子が伺えます。一方、病死説は秀長側近の福智長通の義弘宛書状に、家久が病を煩っていたと解釈が出来る一文があります(読み方によっては兄義弘が病気とも)。

家久の死が秀長との対面直後だったために島津家中では色々な噂や憶測が飛び交っていたのだと思われます。ですが、その状況下で豊臣政権は家久との約束を守り、豊久の家督相続と豊臣大名として引き立てることを承認しています。こうして豊久は家久の死後、豊臣大名として本宗家から独立しましたが、宗家とはその後も良好な関係を保っています。とくに朝鮮出兵でともに戦ったからか、義弘と親しく、その意向を尊重して動いているように感じられます。

── 豊久が義弘と親しかったとのことですが、それがわかるような史料はありますか?
文禄の役では一緒に行動していることが多いですね。というのも、豊久は義弘と同じ四番隊に編成され(毛利家文書)、義弘と共に釜山から北上し漢城から江原道まで一緒に行動しています。慶長の役でも釜山から左右に分かれて展開して行く日本軍の左翼に義弘・忠恒・豊久は編成されています。その後豊久は藤堂高虎らと共に水軍に属し、義弘・忠恒父子とは別に戦っていたようです。

戦場での豊久ですが、一言でいえば勇猛果敢、最前線でみずから戦うタイプですね。慶長の役での漆川梁海戦で、豊久は真っ先に敵船に乗り込もうとしたほどです。自ら陣頭指揮をするのは父家久の戦い方を間近で見た影響かもしれませんね。

さて、秀吉の死去によって日本軍は慶長3年(1598)11月15日に釜山に集結した後に撤退することになりました。豊久は期限通りに釜山に着き、露梁沖海戦を戦った義弘・忠恒父子の到着を待っていました。ところが、船の故障等に見舞われて義弘主従が釜山に着いたのは21日。ほかの大名たちはとっくに帰国してしていました。豊久は義弘との再会が叶わないかもと不安だったようです。
そうしたら、ようやく帰って来た船に義弘の馬標を見つけると、小舟で出迎えに行き、義弘の船に乗り移り、感激のあまり涙を流し再会を喜び合いました(本藩人物誌)。伯父と甥の関係とはいえ、豊久は独立した大名でしたが、そうした公的な関係を超えて、二人の強い絆が感じられますね。10代後半に父をなくしただけに、義弘を父のように慕っていたのかもしれません。

今後について

── 漫画やゲームなど、様々なメディアにおける豊久や戦国島津の人気はどのように感じてますか?
良いことだと思いますよ。メディアの情報によって興味を持ち、歴史に興味を持ってもらえるのは嬉しいことです。

── 様々な入口からより深く歴史を学ぶ人が増え、また逆に歴史ファンが島津を題材にした作品に新たに触れる。それによって戦国島津の界隈全体が盛り上がり、イベントや講座、関連作品が更に広がっていく、そうした循環が生まれると良いですね! では最後に、今後の執筆予定はありますでしょうか?
そうですね、戦国島津で伝記の執筆予定がありますので楽しみにしていて下さい。


インタビューを終えて

私たちは漫画やゲームなどの影響のせいか、豊久は明るいタイプだと印象がありますが、こうして史料に接すると、豊久は戦場では勇猛果敢である一方、ふだんは物静かな美男という違ったイメージが浮かび上がります。書状のやり取りで親しい交友関係や名乗り等がわかると、随分とイメージの違う豊久が目に浮かびますね。

以上、伺った豊久の話は本の一部で、7月初旬にすでに発売されている「歴史群像」8月号には豊久の生涯について詳しく書かれていて見所満載となっています。豊久は来年2020年に生誕450年を迎えます。ますますの盛り上がりを期待せずにはいられません。
シィマ
WRITER シィマ

しまづくめの販促物制作、イラスト・漫画制作、ライター…何でも屋です。島津中務大輔家久と戦国島津が好きすぎて、スタッフに加えて頂き光栄です。戦国島津を盛り上げる為にがんばります。東海地方在住。

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