余録 ~「ジメサア」伝説と逸話
■ 行方不明となった亀寿の肖像画亀寿は島津家の女性としては珍しく肖像画が描かれた。これも本宗家の女性たちでも別格の存在で、嫡女たる所以といえよう。
肖像画は明治になってから鹿児島城下の龍尾神社に祀られていた。もともとは菩提寺の興国寺に安置されていたのかもしれない。
安政二年(1855)八月、藩主島津斉彬はこの肖像画を見ている。家来たちは古びているので修復したほうがいいのではないかと具申したらしいが、斉彬は衣紋がよく知られているのでそのままにせよと命じたという(「竪山利武公用控」)。
その後、亀寿肖像画を含む龍尾神社の宝物は鶴嶺神社に合祀された。ところが、明治十年(1877)の西南戦争で失われたという。鹿児島城下に乱入した政府軍兵士によって略奪されたのかもしれない。それ以降、行方不明のままである。
「鶴嶺神社」(鹿児島市吉野町)。当初は照国神社(鹿児島市照国町)に隣接する場所に建立され、大正6年に現在の島津家別邸地に遷座された。月遅れの命日である11月に女性限定の催し「持明祭(じみょうさい)」が開催されている。
■ 大乗院への寄進
亀寿の痕跡が薩摩藩領にいくつか残っている。ひとつは鹿児島城下の大乗院である。この寺は島津家の祈祷所に位置づけられて格式が高かった。本尊の千手観音をはじめ、旁侍の勝軍地蔵、毘沙門天や一切経蔵を寄進している。大乗院は後述の「ジメサア」伝説とも関わっている。
「大乗院跡」(鹿児島市稲荷町)。『三国名勝図絵』に往時の姿が描かれている。廃仏毀釈により廃寺、跡地は清水中学校となったが、敷地や近隣には五輪塔や磨崖碑が残る。
■ 大根占の河上大明神への寄進
現在の肝属郡錦江町城元の河上神社は古くは河上大明神と呼ばれた。往時の社殿は亀寿が再建したという(『三国名勝図会』三)。また祭米などは、亀寿が養子光久の武運長久のために奉納したという(『大根占町誌』)。
この地は前述したように、亀寿が慶長五年(1600)に父義久から与えられた大根占村である。その鎮守である同大明神に寄進したのだろう。
■ 坊津秋目の足跡
南薩の有名な港湾で景勝地でもある坊津。その最北端に位置するのが秋目である(現・南さつま市坊津町秋目)。
この地に海蔵寺という寺があったが、元和六年(1620)八月、亀寿が再建して寺禄を給与し、本尊の阿弥陀如来を寄進して菩提寺にしたという。それに伴い、寺号を佛徳山正法寺に改めたという。亀寿の位牌を安置していたというが、現在も存在するかは不明。
また秋目村は亀寿の所領であり、行館跡があったという。秋目港を望む景勝地だった。またその西方には「持明夫人納涼石」があった。巨岩で海岸に望み、高さ四、五間(約7~9メートル)で、周りが七、八間(約12~14メートル)で、その中に洞窟があり、雨のときは5、6人が坐れた。亀寿も時々訪れて納涼したという(『三国名勝図会二』)。
亀寿が秋目を所領にしていたというのは、管見の限りでは確認できない。どのようないきさつで、この逸話ができたのか不明である。
■ 「ジメサア」伝説の由来と誤伝
「持明院様(ジメサア像)」(鹿児島市城山町)。
鹿児島市立美術館の前庭、西郷隆盛銅像の背後に「ジメサア」の石像がある。毎年10月5日、市の女性職員によって化粧直しされることで知られる。
「ジメサア」は亀寿のこととされ、持明様の鹿児島弁での呼び方である。なぜ石像に化粧を施すかといえば、亀寿は容貌にすぐれず、夫の家久に疎まれたため、美しくありたいと強く願っていたからだという。しかし、そのような史料はもちろん、逸話も存在しない。
この石像には誤伝がつきまとっており、決して亀寿の石像ではない。先ほど述べた大乗院に亀寿が本尊の千手観音などを寄進したことを紹介した。
この寺院に「白地蔵」と呼ばれる石像があった。江戸後期の講釈師である伊東凌舎が天保六年(1835)から翌七年、鹿児島に滞在して『鹿児島ぶり』という紀行文を著した。凌舎は大乗院の境内で白地蔵を実際に見物している。
「白地蔵と云う石像あり。めづらしき像なり。土俗心願あれば、地蔵のおもて(面)に白粉をぬるなりと云う」
「鹿児島ぶり」に記録された「白地蔵」の挿絵。
白地蔵は江戸時代後期から願い事を叶えるため、白粉を塗られていたのである。凌舎は親切にも白地蔵の絵をユーモラスに描いてくれている。「ジメサア」像にそっくりである。また「女子のよく参詣するなり」と説明も付けており、現在の「ジメサア」伝説に通じるところがある。
凌舎の紹介から、白地蔵が亀寿不美人説と結びつき、いつしか大乗院から移転した末に、「ジメサア」へと変貌して現在地に安置されたのであろう。
その時期がいつだか不明だが、廃仏毀釈で大乗院が廃寺になった明治以降のことだろう。
亀寿は大乗院に本尊の千手観音など多くの仏像や経典を寄進した大檀那であり、島津家では格別の女性である。寺側が亀寿への感謝の気持ちから立派な木像や肖像画を造ることはあっても、石像程度でお茶を濁すとは考えられない。しかも、この石像は台座のあたりが地中に埋められていたという。寺側が恩ある大檀那に対して、このような冷遇をするとは考えられない。
いずれにしろ、「ジメサア」と亀寿は無関係であるといわねばならない。
【参考文献】
- 池田純「薩摩藩に関係する藩外寺院」 『鹿児島史談』六号 鹿児島史談会 2008年
- 桐野作人『さつま人国誌』戦国・近世編一~三 南日本新聞社 2011~2017年
- 同上『関ヶ原 島津退き口』 学研M文庫 2013年
- 「しいまんづ雑記旧禄」http://sheemandzu.blog.shinobi.jp/
- 島津修久「諸神社明細」 『尚古集成館紀要』三号 1989年
- 新名一仁「中世島津氏『守護代』考」『宮崎県地域史研究』28 2013年
- 松尾千歳「資料紹介鹿児島ニ召置御書物並冨隈へ被召上御書物覚帳」」 『尚古集成館紀要』三号 1989年
- 米澤英昭「庄内の乱に見る島津家内部における島津義久の立場」 『都城地域史研究』七号 2001年
(文中図表・キャプション・一部写真 しまづくめ編)
プロフィール
桐野作人
1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。
歴史関係の出版社編集長を経て独立。戦国・織豊期や幕末維新期を中心に執筆・講演活動を行う。
主な著書に『関ヶ原 島津退き口』、『さつま人国誌 戦国・近世編1~3』、『織田信長―戦国最強の軍事カリスマ―』、『だれが信長を殺したのか』、『薩摩の密偵 桐野利秋』など多数。
2019年、『龍馬暗殺』で第29回高知出版学術賞特別賞を受賞。
添田一平 WEB / Twitter
フリーランスのイラストレーター。福岡県出身。東京学芸大学卒業。
歴史、特に甲冑武具についての研究を能くし、時代考証や歴史的根拠に基づいた絵を得意とする。2021年現在は猫2匹と共に京都に住む。一般社団法人 日本甲冑武具研究保存会 近畿支部会員。