概要
島津四兄弟の次男・義弘の最後の居館で、終焉の地。
慶長8年(1603年)義弘の命により明国人の易学者・江夏友賢が、建設地の選定・縄張り・町割りを行った。義弘は慶長12年(1607年)、平松城から加治木に移り、元和5年(1619年)に最期を迎える。
現在の「護国神社」「加治木高校」の区画(東の丸)が義弘の時代に建てられ、後に子の忠恒によって西の丸(現在の「柁城小学校」)まで拡張。その後、家久三男・忠朗が加治木屋形と一万石を拝領し、加治木島津家を興した。
江夏友賢は鹿児島城の築城にも関わっており、そこで用いられた切込み剥ぎによる精巧な石垣技術は加治木屋形にも応用されている。また、風水で言う所の「鬼門」にあたる屋形の北東方面には、特徴的な隆起をした「蔵王岳」があり、鬼門からの「穢れ」を防ぐ防波堤として位置づけられていたという伝承が残る。
護国神社には義弘薨去碑がある。学校内にも井戸の跡など史跡があるが、見学は要事前確認。