概要
島津四兄弟の次男、義弘の居城跡。
天正15年(1587年)、太田武篇之介(江戸城を築いた太田道灌の子孫と言われる)に義弘が命じ城を改築させ、長年に渡り拠点とした真幸院・飯野から移って居城とされた。文禄の役に際しては、当城から出陣している。
南九州独特のシラス地形に織豊期の築城技術が用いられた初めての城であり、「高石垣」「礎石建築」「瓦葺」「枡形虎口」「主郭への求心性」「技巧的な城門」といった要素からそれが見て取れる。約500個の野面石が積み上げられた石垣は、総延長52 メートル、勾配は約70度で強固な作りである。
麓には、朝鮮在陣時に、島津軍が時刻を確かめるために連れ歩いたという「猫」を祀る祠がある(写真2)。
窯が築かれており、その道具類が出土していることから、薩摩焼に繋がる製陶技術の最初の伝搬は松尾城であるという説もある。