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しまづくめ

花見酒

生誕500年特集 島津忠将 ~貴久の弟にして右腕、その生涯~

戦国大名島津氏と聞き、思い浮かべるのはどの人物でしょうか?

やはり、戦国島津の代名詞的存在である島津四兄弟…義久・義弘・歳久・家久を思い浮かべる方が殆どではないでしょうか。または、昨今のメディア展開等によって注目度が上昇している島津豊久という方も多いかと思います。あるいは、四兄弟の祖父であり後の島津家中の行動原理や精神性に深い影響を与えた島津忠良(日新斎)、「島津中興の祖」と称えられ戦国大名としての礎を築いた島津貴久、という方もいるでしょう。

例に挙げた以外にも個性や武勇、才気に溢れる人物が多い戦国期の島津家ですが、その中に今年生誕500年を迎える人物がいます。それが、貴久の弟で、戦国大名島津氏の黎明期から勃興期にかけて活躍した「島津忠将ただまさ」です。

今回はその記念特集として、語られることの少ない忠将の生涯や島津家中における立ち位置について、中世島津氏研究の第一人者である、新名一仁氏に解説頂くとともに、ゆかりの史跡を紹介します。(文中写真・キャプション しまづくめ編)



■ 戦国大名島津氏の黎明期に生まれる

伝承で忠将の生誕地とされる伊作城(日置市吹上町)。本丸跡には誕生石がある。

島津忠将(1520~61)は、島津忠良(日新斎)の二男であり、のちに島津奥州家を継承する貴久(1514~71)の同母弟である(母は島津薩州家重久の娘)。忠将が生まれた永正17年(1520)は守護島津勝久の治世であり、この年冬、守護直轄領であった曽於郡城(霧島市国分重久)で家臣伊集院尾張守が反旗を翻すなど、いよいよ守護家の支配が混迷を極めていく時期であった。まさに戦国争乱のまっただ中に生まれ育ったのであり、42年の生涯は戦いにつぐ戦いの日々であった。

大永6年(1526)11月、貴久(虎寿丸)・忠将兄弟の父島津相州家忠良(日新斎)は、凋落著しい守護の島津奥州家勝久に対し、貴久を勝久の養嗣子とすることを条件に軍事的支援を約束し、翌年4月頃、勝久は貴久(当時13歳)に家督を譲り隠居する。しかし、まもなく、島津薩州家実久と結託した勝久は貴久から家督を悔い返し、日新斎・貴久父子は居城田布施への退去を余儀なくされている。これ以降、相州家・奥州家・薩州家の三家による島津本宗家家督の地位をめぐる争乱が勃発した。日新斎・貴久父子としてはこの争いを制して、本宗家家督・三州太守の地位を確立することが至上命題であり、忠将もこの戦いに否応なしに参加していく。忠将にとって、兄貴久が守護としての地位を確立させることこそが、生涯の目標となるのである。

■ 兄、そして当主である貴久の補佐として

天文2年(1533)3月、日新斎は奥州家・薩州家方の桑波田孫六の守る南郷城(日置市吹上町永吉)を攻略してこの地を「永吉」と改名し、この城に「貴久様・又四郎殿(忠将)御兄弟」を入れて守らせた(貴久20歳、忠将14歳)。同年8月、平田左馬介を大将とする鹿児島衆が永吉に攻撃を仕掛けるが、日新斎らはこれを撃退している(「樺山玄佐自記」、「貴久記」)。恐らく、貴久・忠将兄弟の初陣は永吉をめぐる一連の戦いであろう。

南郷城。なお天文16年から19年まで、忠将は永吉一帯を領している。

まだこの頃の島津相州家の勢力圏は、本領である伊作・田布施周辺のみであり、軍事的に頼りになる存在は自らの家臣と南薩の頴娃氏・佐多氏、貴久の外戚となる入来院氏くらいであった。薩摩最大の勢力を誇る島津薩州家に対抗するには、指揮官となる大将の人材が不足していた。このため、忠将は若くして指揮官として期待されていたようである。
天文5年(1536)3月、日新斎は伊集院を攻略しており、この時忠将は若干17歳で出陣している。さらに天文7年12月、島津薩州家最大の拠点である加世田別府城攻めでは、19歳で搦手口の大将として参戦し、川辺山田から急行した薩州家勢を撃破し、負傷もしている。

伊集院城(日置市伊集院町)。一宇治城とも呼ばれ、相州家による薩摩国統一の本拠地となった。

加世田別府城(南さつま市加世田)。この戦いの中で忠将は、城兵の市来家利に歯を折られている(本藩人物史)。また、腕に深い傷を負い戦後しばらく不自由をしていた様子が樺山玄佐自記に記されている。

これからまもなく日新斎・貴久父子は薩摩半島を統一し、天文9年(1540)3月、貴久は島津奥州家菩提寺である福昌寺から奥州家家督=三州太守であることを認められる。つまり、兄貴久は相州家ではなく奥州家の当主となったのである。これにより、相州家家督の地位は日新斎から忠将へと継承されたとみられる。

そもそも島津相州家は島津家の一門・御一家筆頭の地位にあり「庶子の棟梁」というべき地位にあった。この相州家の当主として、忠将は「脇之惣領わきのそうりょう」と位置づけられ、奥州家当主の貴久に不測の事態があった場合、その後継となるべき立場にあったと指摘されている(久下沼譲氏論文)。忠将は三州太守である兄貴久をサポートすることを宿命づけられるポジションに就いたのである。

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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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