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島津貴久 ~合戦に明け暮れた波瀾の生涯~ 


Ⅱ期:家督継承戦争の勝利

 復活した島津奥州家勝久を中心とする政治体制は、長続きせず破綻する。島津薩州家実久は、勝久からの禅譲を狙って擁立したに過ぎず、勝久側近との対立が深まる。この間、島津日新斎は天文2年(1533)3月、守護領だった日置の南郷城(日置市吹上町永吉)を攻略し、「永吉」と改名する。ここに貴久・忠将(1520~61)兄弟が入城したという。貴久の長男義久(虎寿丸)が誕生したのはこの直前、天文2年2月9日のことである。さらに天文5年3月には、伊集院一宇治城(日置市伊集院町大田)を攻略し、以後同城が貴久の居城となる。


南郷城跡」(鹿児島県日置市吹上町永吉)の空堀。貴久と弟・忠将の初陣は同城を巡る攻防であったと推定される。後年、一帯を忠将が領する。



伊集院一宇治城跡」(鹿児島県日置市伊集院町)。貴久はここを拠点として薩州家との戦いを繰り広げた。有名なサビエルとの会見地もこの城とされる(後述)。

 天文4年(1535) 7月には、勝久と祢寝ねじめ重就娘との間に嫡男益房丸(忠良)が誕生してしまい、薩州家実久との対立は決定的となる。同年10月頃、勝久は帖佐に進出していた祁答院けどういん重武と連携し、谷山の薩州家実久勢と合戦となるが敗退する。勝久は島津家相伝の重宝類を所持したまま鹿児島から退去し、最終的に北原氏に庇護され、真幸院まさきいん般若寺(姶良郡湧水町)に落ち着く。日向国庄内の御一家北郷ほんごう忠相や島津豊州家忠朝は、いち早く薩州家実久支持を表明し、薩州家実久は事実上守護家を継承したとみられている。

 貴久の室で義久を産んだ通称「雪窓夫人」は、入来院重聡の娘であった。この縁で、入来院氏の仲介により、日新斎・貴久父子は般若寺の奥州家勝久と和睦し、薩州家実久に対抗して共同戦線をはることとなった。これにより正統な守護家の地位をめぐって、抗争が勃発する。薩州家は、入来院氏と同じ渋谷一族の東郷氏と長年対立しており、川内川下流域の千台(薩摩川内市)周辺の領有をめぐって抗争を続けていた。これにより、薩州家は二方面での戦闘を余儀なくされる。
 天文7年12月、相州家日新斎・貴久・忠将父子は、薩州家の薩摩半島における拠点であった加世田別府城(南さつま市加世田武田)に夜襲をかけ、激闘の末これを攻め落とす。これで相州家は、万之瀬川河口の海上流通拠点を制圧し、薩州家は薩摩半島と本拠和泉で分断されてしまう。

 天文8年3月には、貴久は鹿児島上之山城(鹿児島市城山町、現在の城山)に出陣し、これに対抗するため紫原に出陣した薩州家勢と合戦となり、これを撃破する。谷山の薩州家の拠点三城(谷山本城、苦辛城、神前城)は孤立し、同月末までに開城している。これとほぼ同時に、加世田の日新斎は川辺に進攻し、これも月末までに制圧に成功している。これで相州家は、守護所鹿児島と薩摩半島の全域を制圧したのである。
 川内川以南で残る薩州家の拠点は、串木野城(いちき串木野市上名)・市来城(日置市東市来町長里)のみとなった。天文8年閏6月、貴久はまず市来城攻略をめざし出陣する。この出陣に際しては、貴久の義兄入来院重朝のほか、それまで薩州家方に与していた喜入領主の島津忠俊、知覧の佐多忠成、頴娃えい兼友、蒲生かもう親清、大隅小田・堅利の樺山善久、種子島恵時らも従軍し、貴久の求心力は一気に高まった。市来城はなかなか落ちなかったが、八月末に串木野城の川上忠克が開城して和泉に撤退すると、市来城も開城している。これにより、薩州家の組織的抵抗は収束し、貴久の勝利に終わった。

 ここまでの戦いは、相州家と奥州家勝久の共闘により行われ、名目上〝勝久の鹿児島復帰〟を目的としていた。しかし、貴久は勝久を鹿児島に呼び戻すことはなかった。天文9年(1540)3月、島津奥州家の菩提寺福昌寺の14世恕岳文忠は、貴久の福昌寺復興について記し、貴久の袖判を得ている。このなかで恕岳文忠は、貴久を「三州大府君藤原貴久」とよび、「当寺中興大壇越」と記している。つまり、貴久を福昌寺の檀越=島津奥州家当主であり、「三州太守」=薩隅日三か国守護と認定したのである。これは、貴久自身が奥州家当主となったことを内外にアピールしたものであろう。こうして、貴久は島津本宗家当主としての第一歩を踏み出した。


福昌寺跡(鹿児島県鹿児島市池之上町)の「島津勝久墓」。忠良・貴久父子に排斥された勝久は、日向国、次いで母の実家である豊後国大友氏の元へ落ち延び、生涯を終える。勝久は島津家伝来家宝である「御重物ごじゅうもつ」を所持したまま薩摩を去っており(三州太守認定による正統性のアピールも、御重物を持たないが故の代替的な措置とも考えられる)、義久の代になりようやく全ての回収を果たしている。


Ⅲ期:大隅国府・始羅郡制圧

 貴久の「三州太守」宣言は、多くの御一家・国衆の反発を招いた。天文10年(1541)12月、北郷忠相・島津豊州家忠広・大隅清水の本田董親・加治木の肝付兼演・帖佐の祁答院良重ら13名は、貴久の義兄樺山善久の居城生別府城(霧島市隼人町野久美田)を包囲する。貴久は救援すべく、大隅横川(同市横川町)の北原兼孝とともに加治木に進攻し、肝付兼演の居城加治木城(姶良市加治木町反土)攻略をめざすが、かえって祁答院・蒲生勢の反撃に遭い、敗退している。いまだ貴久の軍事力は、敵対勢力を圧倒するには至っていなかった。

 やむなく貴久は樺山善久を説得して開城させ、樺山領を割譲することで本田董親と講和している。これ以前、大隅国府周辺には多くの守護領があったが、大永年間以降の混乱で諸勢力の草刈場と化し、本来守護家被官であった本田氏をはじめ、北郷忠相・新納忠勝・肝付兼演らによって守護領は分割占有されていた。なお、大永7年(1527)11月28日には、大隅国一之宮である正八幡宮(現在の鹿児島神宮、霧島市隼人町内)が兵火で焼失している。こうした混乱のなかで、急激に勢力を拡大していたのが本田董親である。天文14年(1545)春、前関白近衛稙家の命を受け、参議町資将が島津家から資金援助を得るべく下向してきた。貴久による島津奥州家継承をうけてのものであったが、町資将を饗応したのは本田董親であり信頼を獲得する。董親は多くの唐物を近衛家と町資将に贈って接近し、天文15年8月、「従五位下紀伊守」に叙任され、さらに同16年9月には董兼の嫡男重親が「従五位下左京大夫」に叙任されている。この時、貴久はいまだ無位無官であり、本田氏は官位の上で主家島津氏を超越し、大隅国守護職補任を目指していたとされる。貴久としてはまず本田氏を抑えて、自己の権威を確立する必要があった。

 貴久にとって幸いなことに、天文17年2月に本田氏に内訌が勃発し、大隅国府は争乱状態となる。大隅正八幡宮社家は、軍勢の派遣を求め、貴久は重臣伊集院忠朗と義兄樺山善久を派遣する。同年5月、島津勢は本田董親の居城清水城(霧島市国分清水)を包囲すると、北郷忠相の仲介により董親と和睦する。しかし、同年8月に本田氏は再び祁答院氏らと結んで反旗を翻し、同月末に清水から出奔している。これにより島津氏による大隅国府支配が確立した。貴久は、次弟忠将を清水城主とし、義兄樺山善久を生別府あらため長浜城主に復帰させ、大隅支配を開始する。次の目標は、大隅国府と鹿児島の間に位置する大隅国始羅郡の制圧であった。


大隅正八幡宮(鹿児島神宮)」(鹿児島県霧島市隼人町内)。永禄元年、貴久は胴丸を2領寄進している(国指定重要文化財※外部リンク)。また後年、義久が久保亡き後の後継者を定める鬮をここ大隅正八幡宮で引いたという伝承がある(末川家文書家譜)。

 天文18年(1549)5月、貴久・忠将兄弟は清水城から加治木に出陣し、黒川岬で肝付兼演勢と対峙するが決着がつかず、同年12月、北郷忠相・島津豊州家忠親の仲介により和睦している。なお、この戦いで初めて実戦に鉄砲が使用されたとの説があるが、これは近世の編纂物にみえる記述であり、信憑性は薄い。この和睦後、肝付兼演の嫡男兼盛と貴久妹(御西)との婚姻が成立し、永禄元年(1558)には二人の間に嫡男兼寛が誕生している。
 なお、この戦いの最中、7月22日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しており、9月9日、ザビエルは貴久との面会を果たし、島津家中に対する布教の許可を得ている。この会見場所について、居城の伊集院一宇治城説と、加治木への進攻拠点となった大隅清水城説があり、決着をみていないが、ザビエル本人の報告書の記述からみて、一宇治城の可能性が高い。
 また、加治木肝付氏との和睦翌年の天文19年12月頃、貴久は奥州家歴代の守護所鹿児島に新たに「御内」(内城、鹿児島市大竜町)を築き、伊集院一宇治城から居城を移している。これが、慶長9年(1604)に貴久の孫家久(忠恒)が鹿児島城(鶴丸城、鹿児島市城山町)に移るまで、戦国島津氏の居城として機能していく。


内城跡」(鹿児島県鹿児島市大竜町)。家久が鹿児島城に移った後に廃城となり、南浦文之が開祖となって貴久と義久の法号、「大中」「龍伯」からとって「大龍寺」が建立された。廃仏毀釈により廃寺(跡地は大龍小学校)。

 天文20年には、義兄樺山善久を上洛させ、大隅正八幡宮の御神体を作成させている。樺山善久は得意の和歌で公家に接近し、内裏にて御神体の開眼供養を執り行い、後奈良天皇から日新斎への綸旨獲得に成功している。同年11月、貴久主導で正八幡宮が再建され、新たな本殿への遷宮が実現している。大隅国最大の宗教権威の復興をみずからおこなうことで、大隅国支配の正当性を獲得し、朝廷との外交ルートを確保することにも成功したのである。
 さらに貴久は、種子島時堯に依頼して官位獲得に動く。天文21年6月以前には、貴久の嫡男又三郎忠良に対して、将軍足利義輝の偏諱「義」の字が下され、忠良は「義辰」ついで「義久」と改名している。そして、同年6月11日、貴久は「従五位下修理大夫」に叙任されている。修理大夫は、前当主島津勝久が任官しており、官位の上でも肩を並べた。

 天文23年(1554)8月、貴久の義弟肝付兼盛領に帖佐の祁答院良重が進攻し、戦端が開かれる。島津忠将・樺山善久は加治木救援に向かい、同年9月、貴久は平松(姶良市平松)に出陣する。入来院氏の支城岩剱いわつるぎ城(同上)を包囲することで、祁答院勢を誘き出そうという策であった。この戦いは、貴久子息義久・忠平(のちの義弘)・歳久にとって初陣であり、島津勢が初めて実戦で鉄砲を使用した戦いでもあった。9月14日、島津忠将勢は船で脇元に押し寄せて、鉄砲で敵勢を射伏せたという。同月18日にも、大隅衆が船で別府川をさかのぼり、帖佐の祁答院勢を鉄砲で追い払っている。祁答院勢挑発のためであろう。
 9月30日、岩剱城救援のため打って出た祁答院勢・蒲生勢を、平松川(思川)付近で撃破すると、10月2日には岩剱城攻撃に踏みきり、再び後詰めのために出陣してきた祁答院・蒲生勢を池島(姶良市池島町)で撃破している。この勝利により、岩剱城は開城している。

 いったん鹿児島に帰還した貴久は、翌天文24年2月6日、華林寺(霧島神宮別当寺)に「怨敵退散・武運長久」を祈願すると、3月、帖佐攻略に着手し、3月27日、別府川右岸に帖佐の祁答院勢を誘き出し、撃破している。たまらず4月2日、帖佐本城・新城、山田城(姶良市上名)の祁答院勢は城から撤退していった。帖佐は島津領となり、始羅郡にのこる敵対勢力は、蒲生城(姶良市蒲生町久末)に籠もる蒲生範清のみとなった。
 標高163mの天険に立地する蒲生城は難攻不落であり、蒲生城攻防戦は弘治3年(1557)4月20日まで3年かかっている。二男忠平の奮闘もあり、蒲生城の支城松坂城は落ち、蒲生城の周囲に馬立の陣(同町上久徳)、荒平陣(同町久末)などを築いて包囲するが、大隅北端の国衆蒲生重州は長男重豊を蒲生城救援のため派遣し、城の北西丘陵上に布陣する(菱刈陣、同町米丸字陣平)。弘治3年3月22日、馬立陣から貴久・義久・歳久父子が菱刈勢に攻めかかり、激しい戦闘となった。この戦闘で貴久は乗馬に征矢が当たり、義久には兜の鉢に蝿の尾が命中。歳久は蝿の尾が左股を貫通する重傷を負うなど、苦戦を強いられている。二男忠平も急遽救援に向かい、種子島衆の鉄砲射撃により戦闘は終結したという。
 4月15日、島津忠平らが率いる軍勢が菱刈陣を攻撃し、大将菱刈重豊を討ち取って勝利する。これにより救援の望みが絶たれた蒲生範清は、4月20日下城し、蒲生城は開城する。これにより、貴久は始羅郡制圧に成功した。


菱刈陣から望む「蒲生城跡」(鹿児島県姶良市蒲生町)。藤原教清の子・舜清が保安4年(1123)に蒲生院に入り蒲生氏を名乗り同城を築いて以来、代々蒲生氏の拠点となった。なお関ヶ原合戦後、対徳川氏からの防衛拠点として、義弘の指揮により改修整備が行われている。
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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