Ⅳ期:島津包囲網との抗争
当初島津薩州家を支持していた日向国庄内の北郷氏と同国飫肥・櫛間の島津豊州家は、天文14年(1545)3月、伊集院で貴久の家督継承・守護就任を承認し、その従属下に入っている。この態度の変化は、日向山東(宮崎平野)の有力国衆伊東義祐(1512~85)との抗争激化が原因であった。豊州家らは貴久の従属下に入ることと引き替えに、伊東氏との抗争での支援を求めたのである。天文18年3月、伊東勢に居城である飫肥城を包囲された豊州家忠広・忠親(北郷忠相長男、忠広養子)父子を救援するため、重臣伊集院忠朗に兵300を付けて、飫肥城に派遣している。伊集院忠朗は4月4日、伊東方の拠点業毎ヶ辻(中ノ尾)を攻略し、伊東勢を撤退させることに成功している。しかし、貴久が始羅郡制圧に苦闘するなか、天文22年再び伊東勢は飫肥城包囲を開始する。
今回の伊東氏の飫肥進出は、大隅の有力国衆肝付兼続(1511~66)と連携したものであった。兼続は貴久の義兄であり、貴久姉御南との間には天文4年(1535)に長男良兼が誕生しており、両氏の関係は良好であった。しかし、良兼は室に伊東義祐の長女を迎え、天文24年以前には長男満寿丸が生まれている。肝付氏は天文13年には島津豊州家領に進攻を開始し、逆に天文17年正月には、北郷忠相が肝付領の大隅恒吉城(曽於市大隅町恒吉)を攻略し、北郷・豊州家連合は肝付・伊東連合と全面抗争に突入したとみられる。貴久としては、義兄肝付兼続と北郷・豊州家どちらかと手を切る必要があったが、天文17年6月、貴久は北郷忠相と契状を交わし、共同で肝付氏に対抗していくことを約束しており、肝付兼続との軍事衝突は避けられなくなっていた。
永禄3年(1560)3月頃、貴久は北郷忠相の二男忠孝の娘を室としていた、二男忠平を飫肥城に入れている。伊東勢に包囲された飫肥城への支援であると同時に、飫肥城主豊州家忠親の養嗣子としての入城だったとも伝えられる。貴久としては、決して豊州家を見捨てないという誠意の証であったろう。同時に島津氏は伊東氏の背後にいる豊後国守護大友氏に働きかけ、伊東氏との和睦を模索する。この動きもあってか、同年6月、将軍足利義輝は貴久に伊東氏との和睦を命じる御内書を発し、和睦仲介の交渉役として伊勢備後守貞運を派遣する。貴久は、末吉(曽於市末吉町)まで上使を出迎え、義兄樺山善久・義弟肝付兼盛、側近新納忠元に交渉を任せる。上使は伊東氏との間を行き来して和平を模索したが、結局条件面で折り合わず、交渉は決裂したとみられる。
幕府の和睦調停が失敗したことで、伊東・肝付連合との戦闘は不可避となった。そして、永禄4年5月、肝付兼続は娘聟の祢寝清年、清年の義弟伊地知重興(下大隅領主)と共に、突如大隅廻城(霧島市福山町)を攻略する。廻城は大隅国府から大隅半島そして日向国庄内への街道沿いの要衝であり、ここを肝付氏に制圧されることは、島津勢から北郷・豊州家連合への支援ルートが断たれることを意味していた。
急ぎ廻城を奪回すべく、貴久は弟忠将や長男義久とともに出陣する。しかし、同年7月12日、廻城に籠もる肝付勢らは、力攻めしようとした島津忠将勢を奇襲し、忠将は討死してしまう(享年42)。貴久の片腕として大隅経営を担っていた忠将の若すぎる死は、貴久にとって大打撃であった。貴久は東に肝付・伊東連合、北に祁答院・入来院・東郷という敵対勢力を抱え、進退窮まっていた。島津氏の支援を断たれた飫肥城は、伊東氏の攻撃に耐えられなくなり、和睦・開城をせざるをえなくなっていく。永禄4年7月頃、豊州家忠親は貴久二男忠平を説得し、飫肥から帰国させている。北郷忠相も肝付氏と和睦し、貴久の北郷・豊州家連合との連携は破綻してしまう。
「島津忠将供養塔」(鹿児島県霧島市福山町)。討ち死にした家臣らの供養碑と共に建てられている。
そして、このタイミングで思わぬ事態が生じる。日向国真幸院(宮崎県えびの市・小林市・高原町)から大隅国吉松・栗野(鹿児島県姶良郡湧水町)、横川(同県霧島市横川町)、踊(同市牧園町)に至る広大な領域を勢力圏としていた北原兼守が、永禄5年(1562)に早世してしまう。兼守の室は飫肥を攻略しつつあった伊東義祐の娘であり、義祐はこの混乱に乗じて真幸院東部の三之山(宮崎県小林市)を制圧してしまう。南北二方向からの伊東勢の勢力拡大に危機感を覚えた貴久は、蒲生城攻防戦では敵対関係にあった菱刈重州・重猛の仲介で肥後人吉(熊本県人吉市)の相良頼房(のちの義陽、1544~81)と手を組み、相良氏のもとに亡命していた北原又太郎兼親を担ぎ出し、真幸院西部の拠点飯野城(宮崎県えびの市原田)に入城させる。さらに同年六月には、貴久自ら溝辺(霧島市溝辺町)に出陣し、伊東義祐方についた横川城(同市横川町中ノ)を攻略し、横川・栗野を菱刈氏に割譲して懐柔している。
貴久としては、大隅北部を安定化することで、肝付兼続を中心とする反島津方との抗争に備えるつもりだったろうが、まもなく相良・菱刈両氏が伊東側に寝返り、事態は急変する。永禄7年、貴久は北原兼守を伊集院上神殿に移し、飯野城主に飫肥から戻った二男忠平を抜擢する。これ以降忠平は、伊東氏の攻撃を退け続け、天正17年(1589)に大隅栗野城に移るまで飯野城を居城としている。
Ⅴ期:薩摩統一を成し遂げた晩年
この時期、貴久はもっとも厳しい時期を迎えていた。日向の伊東義祐を中心に大隅の肝付・伊地知・祢寝連合が、北郷・豊州家連合と貴久の連携を断ちきり、さらに薩摩北部の入来院・東郷といった渋谷一族と大隅北端の菱刈氏、さらにその背後に位置する相良氏までが伊東義祐と連携し、反島津方となったのであり、肥薩隅日四か国に島津包囲網が形成されてしまったのである。このタイミングで貴久は、家督を義久に譲る決断をする。永禄7年(1564)3月14日、貴久は朝廷から奥州家歴代が称してきた「陸奥守」に、長男義久は父貴久に代わって「修理大夫」に任じられる。みずからの後継が義久であることを内外に示したのであろう。そして、2年後の永禄9年2月、貴久は島津奥州家家督を義久に譲り、みずからは出家して「伯囿」と名乗る。貴久は新当主義久を押し立て、それを後見することでこの難局を乗り切ろうとしたようである。
永禄10年11月、貴久は、二男忠平・新納忠元・肝付兼盛らと共に真幸院から菱刈院に電撃的に進攻し、馬越城(伊佐市菱刈前目)を攻略する。菱刈隆秋は居城太良城(同市菱刈南浦)などを放棄し、盟友相良氏の支城大口城(同市大口里)に籠城する。この頃既に島津薩州家義虎は貴久に従属していたが、大口城包囲には非協力的で、籠城した菱刈・相良連合軍に苦戦を強いられた。大口城包囲に軍勢を割いている隙に、飯野城に伊東勢が攻撃を仕掛けてきたことも大きかった。永禄11年13日、貴久の父日新斎が隠居先の加世田保泉寺(のちの日新寺、現在の竹田神社)で没したこともあり、やむなく同年秋、山野城(伊佐市大口山野)をひき渡すことで、いったん相良氏と和睦を結んでいる。しかし、まもなく和睦は破れ、再び籠城戦が開始される。
最終的に、永禄12年5月、島津家久・新納忠元・肝付兼盛ら大口包囲衆の策により、いわゆる「釣り野伏」を仕掛けて多くの城衆を誘き出し、戸神ヶ尾(同市大口鳥巣)にて撃破している(戸神尾の戦い)。この敗北により同年9月、大口城は開城し、相良氏と和睦している。菱刈氏は前当主重猛の嫡男重広が本城・曽木のみ安堵され、大口城には地頭として新納忠元が入った。
こうして四か国におよんだ島津包囲網の一角が崩れ、孤立した入来院・東郷両氏は、同年末に島津氏に降伏・従属している。これにより、ようやく貴久・義久父子は、薩摩国統一を果たしたのである。
これ以降、貴久は表舞台から退き、父日新斎がいた加世田別府城に隠居したようである。そして、2年後の元亀2年(1571)6月23日、別府城内で没した(享年58)。持仏堂にて仏前に香華を捧げて、法華経第一巻を読誦し、第二巻をもって焼香しながら亡くなったという。奥州家菩提寺福昌寺が廟所となり、貴久みずから創建した松原山南林寺(鹿児島市南林寺町・松原町)に、位牌と御影が収められたという。
「松原神社(南林寺跡)」(鹿児島県鹿児島市南林寺町・松原町)。南林寺は廃仏毀釈により廃寺となり、跡地に貴久の影像を神体として松原神社が建立された。
貴久死没の翌年、元亀3年5月、二男忠平は、起死回生を図るべく飯野に進攻した伊東勢を撃破する(木崎原の戦い)。宿敵伊東義祐が日向から出奔するのは、天正5年(1577)12月。伊東領回復のため日向に進出した大友宗麟勢を高城・耳川合戦で撃破し、島津義久が父貴久の宿願であった薩摩・大隅・日向三か国を統一するのは、天正6年(1578)11月のことであった。
福昌寺跡の「島津貴久墓」(鹿児島県鹿児島市池之上町)。
おわりに
貴久は10代から父忠良(日新斎)から奥州家の家督継承者として擁立され、奥州家家督の奪取と薩隅日三か国平定を宿命づけられていた生涯であった。しかし、父日新斎によるクーデターに近い奥州家家督奪取は、時期が早かったのか御一家らの支持を得られず、短期間で失敗に終わった。これは、日新斎・貴久父子にとって大きな教訓となり、その教訓は義久・忠平ら子どもたちに伝えられていく。貴久による家督継承が実現したのは、薩摩半島統一を実現し、薩州家との戦闘に勝利した直後の天文9年(1540)のことであったが、今回も御一家の支持は得られず、その後の苦戦につながっていった。しかしその一方で、時間はかかったものの地道に敵対勢力を潰していくことで、守護所鹿児島から大隅国府に至る地域が直轄領となり、戦国島津家の飛躍を支える「地頭衆中制」を確立していく。
誤算だったのは、伊東義祐による島津包囲網の構築で、義兄肝付兼続がこれに与したことで、弟忠将は討ち取られ、従属下にあった飫肥の島津豊州家を見捨てる結果となった。しかし、義兄樺山善久の外交交渉により伊東義祐の真幸院制圧を阻止し、その後の菱刈・大口進攻に勝利出来たことにより、奇跡的に包囲網を分断することに成功する。それを可能にしたのは、島津忠平・家久、新納忠元といった外交・軍事面で能力を発揮する有能な武将の登場によるものであり、これ以降の戦いでも敵対勢力に勝利し続ける。
島津包囲網が肥薩隅日四か国におよび、四面楚歌のなか、貴久が出家・隠居して義久に家督を譲ったのはなぜか。次弟忠将・末弟尚久が相次いで亡くなり、意気消沈したこともあろう。加えて、かつての父日新斎がそうだったように、義久を島津本宗家当主として独り立ちさせ、自分はこれを後見することで、帝王学を授け、日新斎・貴久亡き後に備えようとしたのであろう。そうした配慮のおかげか、貴久自身は薩摩一国を統一するにとどまったが、義久・忠平(義弘)らは父祖の教えをよく守り、島津家を戦国大名として成長させていく。
【参考文献】
・山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中」(拙編『シリーズ中世西国武士の研究1 薩摩島津氏』戎光祥出版、2014年、初出は1986年)
・伊集守道「戦国期本田氏地域権力化の一側面―近衛家との交流を中心に―」(『富山史檀』155、2008年)
・大山智美「戦国大名島津氏の権力形成過程―島津貴久の家督継承と官途拝領を中心に―」(拙編『シリーズ中世西国武士の研究1 薩摩島津氏』戎光祥出版、2014年、初出は2009年)
・新名一仁『島津貴久―戦国大名島津氏の誕生―』(戎光祥出版、2017年)
プロフィール
新名一仁
宮崎市在住。広島大学大学院文学研究科博士課程国史学専攻、博士(文学、東北大学)。南日本新聞社 第 44回南日本出版文化賞受賞。著書に『島津貴久』(戎光祥出版)、『島津四兄弟の九州統一戦』(星海社)、『中世島津氏研究の最前線』(洋泉社)、『現代語訳 上井覚兼日記』(ヒムカ出版)、『「不屈の両殿」島津義久・義弘』(角川新書)。