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亀寿生誕450年特集②「亀寿、孤独と波瀾の生涯(後編)」


6.亀寿、家久と和解に至る ~「龍伯様御一筋」を光久に託す





義久・亀寿が晩年を過ごした「舞鶴城屋形跡(国分城)」(鹿児島県霧島市国分中央)。慶長9年(1604)、義久はそれまでの居城である富隈城(霧島市隼人町住吉)より現地に移った。後方には詰の城である隼人城が築かれている(2枚目イラスト右上、3枚目遠景)。現在跡地は国分小学校となっているが、屋形の「朱門」が残っている(4枚目)。

 一方、亀寿は義久を看病しているうちに梯子を外された形になった。当然、この仕打ちに怒ったことと思われる。そして義久が逝去すると、そのまま国分に留まった。
 かくして、鹿児島と国分でのにらみ合いと緊張関係がしばらく続いた。元和五年(1619)二月七日、国分衆が署名・血判した「於上様御代国府諸士起請文」がある(『後編四』1574)。「上様」は亀寿、「国府」は国分である。
 この起請文には222名が名を連ねて亀寿に忠節を誓っていると思われる。もともと義久の旧臣だった人々である。彼らは島津家直臣のみであり、その郎党まで加えると、数倍の人数が亀寿のまわりに結集していることを示している。
 また亀寿自身も相当の知行地を保有していた。それは3回に分けて得ている。

①慶長二年(1597)六月九日
 義久が日向諸県郡の内から五〇〇〇石 (『後編三』240)

②慶長四年(1599)二月二十日
 義弘が人質の在京生活の苦労に報いるため、薩摩の串木野村、羽島村、伊集院谷口村など五〇〇〇石(『後編三』660)

③慶長五年(1600)十二月二十四日
 義久が大隅の大根占村の二七三九石余


 都合、亀寿の知行高は一万二七三九石余である。しかも、軍役などの賦課がない無役領だった。国分方はなかなかの勢力に見えるが、やはり本宗家の当主となった家久勢力にはかなわない。
 義久が逝去した慶長十六年から十八年の間に島津家中の高帳が作成されている(『後編三』1075)。それには、国分衆以外の800人以上の家臣を書き上げてあるほか、一所衆(分家や有力家臣集団)14人(知行高総計一三万一八八三石余)もいる。
しかも、高帳では「従国分之移衆」として国分で義久に仕えていた旧臣たちが家久の家臣団に編入されている。
 そのなかには、亀寿の甥にあたる島津忠栄(御平四男)、北郷掃部助(時久四男)、吉田清孝、山田有栄(のち昌巌)など大身の家臣が含まれていた。つまり、義久の家臣団から多数の大身家臣が家久に召し抱えられていたから、亀寿のもとには小身の家臣たちしか残らなかったといえる。
 だから、鹿児島と国分の対立はおのずとその結末は明らかだった。亀寿を守る国分衆は解体する運命にあった。

 それでも、亀寿にはまだ本宗家の嫡女としての「権威」を保持していた。それは義久から引き継いだ本宗家の家宝である。これを亀寿が保持している限り、家久は名実共に本宗家の当主としての正統性を得ることができない。
 両勢力の対立を緩和しようとしたのが義弘だったのではないか。義久逝去後のことだと思われるが、義弘は亀寿を加治木に引き取ろうとした。家久の側近、伊勢貞昌に宛てた書状には「国府の御上様(亀寿)はあまりにお寂しくなさっていると承ったので、当所(加治木)へそっと申し受け、お慰めしたいと存じ、国分へ申し上げた」とある。もっとも、亀寿は召し連れる女房衆も少ないので行けないと返事している。それならばと義弘は自分から国分に赴き、饗宴を催したいと思うが、どうだろうかと貞昌に問い合わせている(「伊勢文書」五、『宮崎県史』史料編中世1)。

 亀寿にとって、義弘は在京中、もっとも親身になって世話をしてくれたばかりか、退き口の海路での帰国途次、命を救ってくれた恩人でもあった。一方、不仲の夫家久の父親でもあり、最後は家久の肩を持つだろうという複雑な心境だったのではないだろうか。

 それでも、時の流れが亀寿と家久の対立を次第に緩和させていく。亀寿も亡父義久が期待した男子の誕生は望むべきもなかった。それならばと次善の策を講じたのである。
 じつをいうと、亀寿は家久の側室でも長姉御平の孫娘にあたる慶安夫人にだけは好意を抱いていた。慶安夫人が十三歳だった慶長十七年(1612)、亀寿は慶安夫人と会っている。彼女がお歯黒初めという名目で国分の亀寿のもとを訪れている。おそらく義久の死去直後なのでお見舞いに訪れたのだろう。このとき、亀寿は慶安夫人に次のような印象をもった(「桃外院殿年譜雑伝」乾)。

美目貌みめかたちが麗しく、世に類いなきおよそおいなので、しばらく(国分に)留め置き、その人となりを試されたところ、お心の様はすべて挙動が玉のような雰囲気で、自ら婦人の徳を備えられていた。故に(亀寿)自らを御媒おんなかだちされて、鹿児島へ送られたという」

 こうして亀寿は覚悟を決め、慶安夫人を家久の側室として承認したのである。そして彼女は元和二年(1616)に虎寿丸を産む。のちの二代藩主光久である。彼が七歳になった同八年(1622)、亀寿は改めて彼を養子に迎え、自分の所領から一万石と家宝を譲った(『後編四』1780)。
 家久もこの養子縁組を非常に喜んだ。家老の島津久元宛ての書状で「虎寿丸のことは、国分(亀寿)の御子として、当家を相続するにおいては、龍伯様(義久)御一筋がいよいよよろしいので、(亀寿も)ご納得されたのは大慶だと思っていたところ、満足なされたそうだ」(『後編四』1781)。
 形式的ではあるが、亀寿は自分の子として光久を家久の次の家督に定めた。家久もまた、この養子縁組により、「龍伯様御一筋」すなわち、義久の血統が次期当主光久に受け継がれることを喜んでいる。なお、注目すべきは、家久が亀寿に敬語を使っていることである。家久は本宗家当主であるものの、格式上はなお亀寿が上位にあったといえよう。
 光久は義久から見ると玄孫にあたる。義久の血統が本宗家当主に受け継がれることは亀寿の悲願でもあった。それが達成されて、亀寿もようやく肩の荷が下りたことだろう。一方、形だけかもしれないが、亀寿と家久の融和も実現したといえよう。不仲な夫婦であったが、ようやく妥協点を見出したともいえよう。もっとも、家宝を家久にではなく、光久に譲ったところに、亀寿の最後の意地があったというべきか。

 それから8年後の寛永七年(1630)七月、亀寿は体調を崩し、十月五日、国分の屋形で死去した。享年六十。法号は「持明彭摠庵主興国寺殿」。
 亀寿の遺骨は高野山(蓮金院か)に納められるとともに、鹿児島城下の上町に菩提寺として興国寺が建立された。その跡地は現在、広大な興国寺墓地となっている。
 運命に翻弄されながらも、また孤独に苛まれながらも、本宗家家督の嫡女として意地を貫き通した生涯だった。


桜島を望む場所にある「興国寺跡(興国寺墓地)」(鹿児島県霧島市国分中央)。『薩藩旧記雑録』編纂者である伊地知季安・季通父子の墓ほか、島津氏関係者の墓石が点在している。

島津家代々の墓所である「福昌寺跡」(鹿児島県鹿児島市池之上町)に亀寿の墓はある。関係性の表れか、忠恒墓との場所は遠く離れている。ちなみに撮影当時、たまたま野良と思われる茶トラの猫が亀寿墓を通りかかった。鹿児島において茶トラ猫は「ヤス猫」と呼ばれており、久保をあやかったものという伝承がある。あるいは久保の化身として亀寿を護り続けているのかも?
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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