薩摩半島を統一した貴久が次に目指したのは、大隅国国府(霧島市国分)とその間に位置する始羅郡(現在の姶良市)の制圧であった。国府には室町期以来、奥州家譜代家臣の本田氏が守護代として配置されていたが、本田董親は独自に朝廷とのルートを築き、島津氏からの自立を図った。貴久は本田氏の内紛に乗じて重臣伊集院忠朗を派遣し、天文17年(1548)9月、居城の清水城(霧島市国分清水)周辺を制圧する。貴久にとって大隅支配の橋頭堡となった国府を任せたのが忠将である。
忠将は清水のほか、姫木(国分姫城)・松永(隼人町松永)・上井(国分上井)・浜市(隼人町真孝)・小村(国分広瀬)・湊(国分湊)・廻(福山町)・市成(鹿屋市)・恒吉(曽於市大隅町)を与えられたといい、広大な領域の支配を任されたのである。ただ、これらの地域は、貴久の支配領域である薩摩半島とは分断されており、その中間に位置する始羅郡の制圧が急務となった。
清水城(霧島市国分清水)。始羅郡を巡る戦いでは、貴久も度々在城し指揮を執った。
忠将は貴久と連繋をとりつつ、大隅国内の島津方をまとめあげ始羅郡攻略に邁進する。翌天文18年には加治木の肝付兼演と加治木の黒川崎にて交戦するに至るが和睦。天文19年には同氏を味方とすることに成功する。なお、同年6月20日には忠将と佐多忠成娘との間に長男天文23年以降は、蒲生・祁答院・入来院連合との長期の戦いに突入する。この時忠将は、島津氏に従属した大隅国衆を引き連れて度々出陣している。叛服常ない国衆達をまとめあげ、長期の在陣を実現した忠将は兄に劣らぬ統率力を有していたのであろう。武将としての能力にも長け、弘治元年(1555)3月の帖佐岩野原での戦いでは、帖佐平山城に籠もる祁答院を誘き出して撃破し、敵100人を討ち取っている。弘治2年(1556)4月、蒲生城攻防戦の最終段階である菱刈陣(姶良市蒲生町米丸)攻めでは忠将が副将をつとめ、敵将菱刈左馬権頭(重州の長男重豊ヵ)を討ち取ったという。これからまもなく蒲生城は落城し、始羅郡統一に成功している。
菱刈陣から望む蒲生城(姶良市蒲生町)。蒲生城とその支城を巡る攻防は2年に及び、貴久・義久・忠平(義弘)・歳久らも直接戦闘に参加するなど激戦が繰り広げられた。
なお、一連の戦闘で忠将はたびたび鉄砲を使用している。天文23年9月14日、忠将は船五艘で脇元(姶良市脇元)の陸近くに押し寄せ、鉄砲で2、3人を射伏せたという。また同月18日には、大隅衆を率いて船50艘ほどで別府川をさかのぼり、敵を鉄砲で追い払っている(「岩剱合戦日記」)。これが島津氏による実戦での鉄砲使用の初見史料である。船上からの射撃というところに、鉄砲の特性をよく理解した忠将の戦術が見て取れよう。別府川(姶良市)。忠将は帖佐平山城(写真中央)から出戦した祁答院勢を鉄砲で迎撃する。いわゆるヒット&アウェイ戦法か。
■ 廻城の攻防、そして最期こうして忠将は、貴久の覇業実現のため、合戦での指揮官、大隅国衆の統制など、八面六臂の活躍をみせていた。しかし、貴久・忠将兄弟の大隅支配にとって最大の障壁が現れる。大隅国高山(肝属郡肝付町)を本拠とする有力国衆肝付兼続である。
永禄4年(1561)5月、兼続は突如、大隅国府と都城盆地・大隅半島を結ぶ街道沿いの要衝である廻城(霧島市福山町)を奪取し、島津氏に反旗を翻す。同年6月、島津貴久・義久父子は忠将と共に出陣し、廻城を包囲する。廻城救援のため出陣した肝付・伊地知・祢寝連合軍は、同年7月12日、島津方の陣のひとつ竹原山を襲う。これに誘い出された忠将は、家老町田加賀守忠林の諫言も聞かずに出陣し、敵の伏兵に遭う。ここで忠将以下、主従70余人が討死したという。享年42。その供養塔は、討死した竹原山中腹に今も立っている。
廻城攻防図(霧島市福山町)。
忠将が討ち死にした竹原山に立つ供養塔。傍らには共に戦死した酒匂源左衛門などの供養碑もある。現地案内によると、最初以久が建立したものは倒壊し、現在あるものは垂水島津家7代久治が再建したもの。
■ 死の影響と一族のその後なぜ、忠将は諫言も聞かずに無理な合戦を挑み討死したのであろうか。その背景のひとつとして、大隅国支配を兄から任されていたという責任感があろう。肝付氏の事前の動きを見抜けず、要衝廻城をみすみす奪われた結果、島津氏の同盟相手である庄内の北郷氏、飫肥の島津豊州家との連絡ルートを奪われる結果となった。その重大性を誰よりも分かっていたからこそ、功を急いでしまったのであろう。
兄貴久にとって、右腕ともいえる弟忠将の死は大きな痛手となったようである。指揮官不足を補うため、飫肥に養子に出していた二男忠平(のちの義弘)を呼び戻し、結果として島津豊州家を見捨てている。ただ、忠将の遺児以久は、成長すると忠将の旧領を任され、「脇之惣領」という地位もその子孫である垂水島津家によって継承されている。以久は関ヶ原の戦い後、島津豊久の旧領を引き継ぎ、佐土原藩初代藩主となり、その嫡孫久信は義弘の子忠恒(家久)と島津本宗家家督を争っている。兄のために犠牲となった忠将という存在が、その子孫までも「特別な存在」として引き上げていったのである。
【参考文献】
新名 一仁(にいな かずひと)
宮崎県出身、広島大学大学院文学研究科博士課程国史学専攻・東北大学博士(文学)。志學館大学非常勤講師。南日本新聞社 第44回南日本出版文化賞受賞。専門は中世後期の南九州政治史。著書に「島津貴久」(戎光祥出版)、「島津四兄弟の九州統一戦」(星海社)、「中世島津氏研究の最前線」(洋泉社)など。
単に貴久に最も近い親類というだけなく、太守を支える(あるいは代理を務める)一門の筆頭として、また最前線を戦う司令官として、重責を担った島津忠将。この貴久と忠将の関係と役割は、あとを引き継いだ義久・義弘のそれと極めて類似しています。
義弘は日向伊東氏や相良氏への対抗として真幸院(現在の宮崎県えびの市)に封ぜられ、三州統一を果たして以降は「九州統一戦」の現地司令官としての役割を担い、義久の「名代」として、家中全体の意思決定にも携わるようになりました。こうした政治体制が、戦国大名島津氏の大きな特徴の一つと言えるかもしれません。
最後に、福山の供養塔以外の忠将(戒名:心翁大安大居士)を祀る史跡について紹介します。
①楞厳寺跡(霧島市国分清水)
楞厳寺の墓標。忠将の他、妻の南君、孫の彰久(文禄の役で陣没)の墓もあった。
佛頂山楞厳寺(曹洞宗)。忠将の菩提寺であり、戦死後当地に墓が建てられた。もともとは本田氏が代々崇敬していたが、かわって清水に入った忠将が庇護したためその縁により菩提寺になったとも、本田氏没落後荒廃したが忠将埋葬をきっかけとして再興した、とも言われている。戒名からとり心翁院と号する塔頭(境内にある小寺)が建てられ、以久が垂水に移封されるとともに移って心翁寺となり、忠将を祖とする垂水島津家の菩提寺となった。廃仏毀釈により廃寺となった後も墓は残っていたが、太平洋戦争時の空襲により破壊され、今は墓標が立つのみとなっている。なお、楞厳寺にあった仁王像の一部は現在国分郷土館に保管展示されている。
②大安寺跡(霧島市福山町)
三国名勝図絵に描かれた往時の姿。
永奉山大安寺(曹洞宗)。忠将の菩提寺。元々は高山邑(現在の肝付町)にあったが、大廻に移る。天正3年(1575)、前述の供養塔建立と同時に以久により現在地に移され、戒名より「大安」を寺号としたという(以前の寺号は不明)。かつては忠将とその従臣57名の位牌があったとされるが、寛政九年(1797)に寺は焼失。その後再建されたが、廃仏毀釈により廃寺となった。
③島津忠将供養碑(姶良市東餅田)
一部損壊・修復した跡が見られる。
以久が帖佐の領主であった永禄10年7月10日、忠将供養の為、大乗妙典を千部読誦した際に建てた記念碑。後年、垂水島津家が興ってからは、現地民に「垂水どんの墓」と呼ばれていたという。傍らには後年、垂水島津家10代当主貴澄が寄進した石燈がある。④大安寺(宮崎県西都市)
[su_row][su_column size=”1/3″ center=”no” class=””]
忠将供養碑 [/su_column] [su_column size=”1/3″ center=”no” class=””]
忠将位牌 [/su_column] [su_column size=”1/3″ center=”no” class=””]
貴久位牌 [/su_column][/su_row]
[su_row][su_column size=”1/3″ center=”no” class=””]
豊久位牌 [/su_column] [su_column size=”1/3″ center=”no” class=””]
家臣位牌 [/su_column] [su_column size=”1/3″ center=”no” class=””] [/su_column][/su_row] 興福山大安寺(曹洞宗)。忠将の菩提寺であり、忠将および共に戦死したとみられる家臣の位牌がある。明確な記録がないものの、残されているものから佐土原島津氏の菩提寺であったとされる。
かつては総昌院と称し、都於郡城第5代城主伊東祐堯以降、伊東氏の菩提寺であった。その後、日向佐土原藩を治めた佐土原島津氏により、忠将の戒名をとって「大安寺」に改められた。
佐土原藩第6代藩主・惟久により寛永7年に建てられた忠将の供養塔がある。また本堂には忠将や佐土原島津氏関係者ほか、各寺が廃寺になった際に集められたと思われる島津貴久や島津豊久の位牌も安置されている。
(編注:大安寺様は現在も法事を営まれており、観光施設ではありません。また位牌についても原則非公開です。今回特別に許可を頂き、撮影・掲載しています。写真の転載や無断使用、大安寺様へのお問い合わせ・訪問は絶対にお止めください)
【しまづくめ 編集部分 参考文献】