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「つくられた」じめさあ伝説 ~亀寿信仰の実像~(前編)



■ イベントの”シンボル”として

 昭和35年7月。鹿児島市立美術館の谷口館長と市民有志らの主導で、「醜女で夫・家久に蔑まれたことを嘆き、自刃して果て怨霊となった持明姫の像」を“美への憧れのシンボル”として祀り、六月灯なみの華やかな催しを開こう──という運動が起こる


昭和35年7月23日付南日本新聞 朝刊(鹿児島県立図書館 蔵)

日の目をみる自明姫石像
“美への憧れ”を祭る 鹿児島市の有志 六月灯なみに


 鹿児島市美術館敷地内の南片隅(旧二の丸城跡)に夏草に埋もれてポツンと取り残されている持明姫(ジュメサー)の石像を、六月灯なみの華やかな催しを開いてまつろうという計画が地元有志の要望によって谷口美術館長、泊同館次長の手で進められている。この石像の顔に白粉と紅を塗って拝むと美人になるという言い伝えがあり、今でも秘かにお参りする人が絶えないことから、美の殿堂をもって任ずる美術館も捨てておけず、一肌脱ぐことになったもの。

 石像のヒロイン持明姫は、いまから四百年前、織田信長が島津十七代家久公に押しつけた政略結婚のギセイ者と言われる。彼女が二目と見られぬ醜女で、しかもセムシ(編注※1)だったため、正妻として迎えられても相手にされず美女をはべらせた色好みの家久公から逆にアザ笑われる始末。この悲しさに耐えかねて彼女は遂に自刃し果てた。その亡霊は福昌寺(鹿児島市池ノ上町・墓はいまでも現存)に埋葬されても成仏できなかったのか、和尚たちを毎夜襲ったので、二人の僧がこれを石に刻んで、二の丸城跡の位置にまつった─というのがこの像の由来。

 その石像から”白粉をつけてたもれ”という亡霊の夜泣きの声が聞かれたといわれる。この像を発見した大正末期の伊集院鹿児島市長(編注※2)は”風の神”という説をとったが、美術館では人間の”美への憧れのシンボル”として祭りたい意向で、市内の六月灯が終わる8月10日前後に同館を夜間開放、美術協会員を動員して石像の周囲を華やかに飾り付け、地元婦人会の生け花展、映写会など多彩なプログラムをねっている。

 怪談めいた伝説を秘める石像の霊もこれで浮かばれるわけで、六月灯にニューフェースが一枚加わり、鹿児島の新名所として残ることになる。

※1 背が弓なりに曲がり盛り上がった状態にになる病気。背中に虫が入ったと信じられたことからこう呼ばれた。
※2 伊集院氏は第6代市長(在任:大正12年4月27日~大正14年2月3日)。樺山市長と記述するところを誤ったのか、それとも伊集院市長発見説があるのかは不明。なお在任中当時の新聞を調べたが、裏付けとなる記事は確認できなかった。

 「信長が家久に押しつけた政略結婚の相手」という記述で分かる通り、基本的な事実関係すら誤っており学術関係者が企画に携わっていないのは明白である。先に紹介した久保氏の記事は掲載日(昭和35年8月17日)から考えて、イベント開催に合わせて組まれた亀寿特集記事であろうが、久保氏は史実に沿った亀寿の来歴を紹介しているがために、企画内容とはチグハグなことになってしまっている。
 更に、前掲の記事では「寒山拾得の拾得像」と評していたはずの谷口館長が意見を変えている(「地元有志」の要望に押されて仕方なく、かもしれないが)ことから見ても、あくまでイベントありきで亀寿の存在を担ぎ出した姿勢が垣間見える。

 こうして計画された「新たな催し」は、”納涼美術まつり”という名称で翌8月に盛大に実施される。

浮きたつジメさあ

 鹿児島市美術館は16日午前10時から(中略)持明院さま(ジメさあ)の石像遷座祭を行った。これは18日の納涼美術まつりを前に、まつりの呼びものである同石像を人目につく日の当たる場所に移そうというもの。
 照国神社の神主さんを呼んでノリトをあげてもらい、(中略)市土木部員10人の手で、持明院さまは重さ2トンのおミコシをもちあげ、シズシズと同館南正面に移動。
 シメナワの首飾りをつけ、美容の神様にふさわしく美しいメーキャップをほどこした持明院さまの石像、暗いヤブの中から日の目を浴びて”これでやっと浮かばれます”といった晴れやかな表情。(後略)

(昭和35年8月16日 南日本新聞朝刊)


きょう美術祭り 美術館前庭
軽音楽やのど自慢も


 鹿児島市美術館の納涼美術まつりは、献灯で美しくいろどった同館前庭3300平方メートルを解放して18日午後5時からひらかれる。県美協、二の丸町内会、南日本新聞社の後援。
 祭りは午後5時から持明院さま石像前のオハライにはじまり、野外では市厚生会バンドの軽音楽、黒田清文門下のバイオリン演奏、桂右木助氏司会によるのど自慢コンクール、花火の打ち上げなど盛り沢山の催しを行う。
 (中略)献灯は商店街、旅館などから大灯ろう7個をふくめ140個が集まり、これには池松市教育長はじめ市内知名士、美術協会員らが思い思いの筆を振るい石像を中心に同館周辺を美術まつり一色に塗りつぶす。(後略)

(昭和35年8月18日 南日本新聞朝刊)


千人の人出で賑わう 納涼美術まつり

 鹿児島市美術館の納涼美術まつりは18日午後5時からひらいた。(中略)納涼をかねた観客延べ1000人がつめかけ、同館はじまって以来の賑わい。
 夜のとばりに包まれた同館周辺には(中略)回り灯ろうや検討の美しい色彩が夜風におどり、ライトにくっきり厚化粧の顔を浮き上がらせた持明院さまの石像を珍しげに見つめる婦人の姿が目立った。(後略)

(昭和35年8月19日 南日本新聞朝刊)


 美術館・自治会・地元企業や商店街・鹿児島県美術協会だけでなく、行政・南日本新聞社・照国神社・地元名士などといった多くの団体・人物が関わり、相当規模で実施されたようだ。
 「悲劇のヒロイン・持明姫の像」として石像を再定義しイベントの目玉として祀り上げようとする一連の動きにより、これまで見てきた風の神としての信仰は意図的に無視され、じめさあ像とそれにまつわる伝説に塗り替えられたのである。
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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