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「つくられた」ジメサァ伝説 ~亀寿信仰の実像~(前編)



■なぜジメサァ伝説が受け入れられたのか?

 石像がジメサァ像と認知されるようになった「経緯」そのものについてはおおよそ明らかにできたと思う。しかし疑問なのは、「なぜそれが人々に受け入れられたのか」という点だ。

 「石像(白地蔵)が元々あった大乗院と亀寿の関係の深さ」という事実で説明できるだろうか。
 これまで見てきたように当時の史料でそういった話は全く出てこない。また大乗院が廃寺となってから亀寿と関連付けられるまでに70年以上の月日が流れており、その間に石像が世の中から忘れ去られていたならともかく、風の神として長い間信仰の対象となっている。ジメサァ伝説の決定打となった納涼美術まつりが開催された当時でさえ、「風の神様」と慣れ親しんだ人々が数多くいるはずだ。

 前述の『古地図に見るかごしまの町』のエピソードについてはどうだろうか。
 「狂信的な女性」がいかなる根拠や言い回しでもって「石像=亀寿」を主張したかは知る由もない。あるいは、大乗院との関連を持ち出したのかもしれない。そういう意味で「ジメサァ伝説のきっかけ」ではあるのかもしれないが、周囲が受け入れるかどうかは全くの別問題である。身寄りがなくバラックに住む、恐らくは学術研究者でもない人物の発言に理由もなく人々は耳を傾けるだろうか。

 前編では「石像」を軸に、ジメサァ伝説が浸透する過程を追った。後編では「亀寿」そのものを焦点として、同時代──明治から戦前にかけての「持明院信仰」の実態を探り、両者の接点を見出すことで、筆者なりの仮説を導き出したいと思う。(後編は10月中に配信予定)


《余禄》白地蔵は2体あった?
 これまで述べてきたように、ジメサァ像の前身とされる「白地蔵」は大乗院の境内にあり、伊東凌舎が天保六年(1835)から翌七年、鹿児島に滞在した際の紀行本『鹿児島ぶり』にその存在が記されているが、実は同時代(天保年間)に鹿児島城下の別の場所にも、白地蔵が存在した可能性があるという。

 豊増哲雄氏は『天保年間鹿児島城下絵図』の南林寺界隈(現在の松原神社付近)の描写に「白地ゾカノバゝ」(明治の地図には「白地蔵ババ」)という朱記と仏像らしい坐像があることに着目し、この通りは白地蔵観音馬場と呼ばれ、大乗院と同じく願掛けの白地蔵があったのではないか、と指摘する。


天保年間鹿児島城下絵図(鹿児島市立美術館蔵)。現在の「東本願寺鹿児島別院」がある通りに、「白地蔵ババ」の朱書きと、坐像と思しきものが描かれている。なお右上には二十三夜勢至菩薩や網掛地蔵が安置された「菩薩堂」が見え、それを由来とする「ポサド通り」「地蔵角」といった地名が今も残る。


『薩藩沿革地圖』に収録されている城下絵図の写しだと分かりやすい。

 明治30年に描かれた『鹿兒島市街實地踏査圖』や、大正時代の鹿児島市国勢調査にも確かに「白地蔵馬場」という記載があり、また現地には名残として「白地蔵通(しろじぞどおい)」の碑が残っている(碑の場所の特定については、山川かんきつ氏のブログ記事を参考にさせて頂きました。御礼申し上げます)。

前述の「ポサド通り」ほか「天文館通り」「いづろ通り」など、通り名の多くは藩政期由来のものである。

 坐像であり形状が異なること・地蔵堂に納められるサイズであることから、また通りの名前に用いられている(=以前よりこの地にあった)ことから、豊増氏の推測する通り、大乗院の白地蔵とは別個体と考えるのが自然だろう。
 前述のように、化粧地蔵は全国的にも事例が多い。あるいは当時の薩摩藩において白地蔵はポピュラーな存在であったのかもしれない。そう考えるとこの2体以外にも複数体存在し、ジメサァ像すら白地蔵とは別個体である可能性が──というのはさすがに空想が過ぎるのでここまでにしておきたい。

【参考文献】
  • 天保年間鹿児島城下絵図(鹿児島市立美術館 蔵)
  • 蓑田岩太郎『鹿兒島市街實地踏査圖』(吉田幸兵衛、1897)
  • 鹿児島市役所 編 『鹿児島市史』(鹿児島市役所、1916)
  • 鹿児島市 編『薩藩沿革地圖』(鹿児島市教育會、1935)
  • 宮武 省三『鹿児島風物志』(鹿児島郷土会、1953)
  • 久保稲穂『お化粧紅の由来 持明院さま石像によせて』(南日本新聞、 1960年8月17日付朝刊)
  • 田中諭吉「企画奥の手」(積文館、1961)
  • 川越政則『南日本風土記』(鹿児島民芸館、1962)
  • 川越政則『鹿児島の旅』(南日本観光出版協会、1966)
  • 桃園恵真「持明夫人」(NHK鹿児島放送局 編『鹿児島豆百科』鹿児島放送文化研究会 1966)
  • 川越政則『鹿児島の美 -南日本民芸図説-』(鹿児島民芸館、1969)
  • 鹿児島民俗学会 編『鹿児島民俗 第58号〜61号』(鹿児島民俗学会、1973)
  • 鹿児島市立美術館 編『鹿児島市立美術館 観覧のしおり(鹿児島市立美術館、1975)
  • 椋鳩十 共著『日本の伝説11』(角川書店、1976)
  • 椋鳩十『鹿児島の伝説』(角川書店、1977)
  • 鹿児島県高等学校歴史部会『鹿児島の歴史散歩〈全国歴史散歩シリーズ46〉』(山川出版社、1977)
  • 伊東凌舎『鹿児島ぶり』(鹿児島県立図書館、1980)
  • 五味克夫「清水城跡と大乗院跡-文献資料からの考察-」(鹿児島市教育委員会 編『大乗院跡-清水中学校校舎改築事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告-』鹿児島市教育委員会、1983)
  • 五味克夫「鹿児島城二の丸の変遷について ─市立美術館敷地を中心に─」(鹿児島市教育委員会 編『鹿児島(鶴丸)城二之丸跡 鹿児島市立美術館建設に伴う緊急発掘調査報告書』鹿児島市教育委員会、1984)
  • 柳田國男「白地蔵黒地蔵」(同著『柳田國男全集24』筑摩書房、1990)
  • 鹿児島県教育委員会 編『鹿児島城二之丸跡 遺構編』(鹿児島県教育委員会、1991)
  • 豊増哲雄『古地図に見るかごしまの町』(春苑堂出版、1996)
  • 田中美帆「光頭無毛文化財・田中諭吉の生涯 ―福博大衆文化の近代史―」(福岡地方史研究会『福岡地方史研究』43号、2005)
  • 濱 幸成『鹿児島の怖い話 ~西郷星は燃えているか~』(2018)
  • 「ジメサア もうひとつの話」(鹿児島ぶら歩き http://burakago.seesaa.net/article/477763431.html)
  • 築地健吉「随想 美容の神様 ジメさぁ(持明院さま)の話」(発行媒体不明、発行日不明、鹿児島市立美術館 蔵)

  • 《主な参考新聞記事》
  • 「石像の風の神」(鹿児島朝日新聞 昭和4年9月4日付)
  • 「日の目見る持明姫石像」(南日本新聞 昭和35年7月23日付)
  • 「浮きたつジメさあ」(南日本新聞 昭和35年8月16日付)
  • 「きょう美術祭り」(南日本新聞 昭和35年8月18日付)
  • 「千人の人出で賑わう 納涼美術まつり」(南日本新聞 昭和35年8月19日付)
  • 「九州の怪談⑯ 持明院像由来記」(南日本新聞 昭和36年8月23日付)
  • 「きれいに化粧 “持明さあ”を清掃」(南日本新聞 昭和50年10月5日)
  • 「持明さあ さっぱり」(南日本新聞 昭和57年10月6日)
  • 「ご難の“風の神様」」(発行媒体不明、発行日不明、鹿児島市立美術館 蔵)

  • ※写真掲載史料・全文引用記事については全て許諾の元掲載
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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