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花見酒

「つくられた」じめさあ伝説 ~亀寿信仰の実像~(前編)



■「じめさあ伝説」の定着

 昭和50年10月4日には初めて、市職員による「化粧直し」が報道されている。

きれいに化粧 “持明さあ”を清掃

心優しかった “持明さあ”にあやかり、親切に愛想よく市民に接しようと、鹿児島市役所市民相談室女子職員らが “持明さあ”の命日前日の4日、同市城山町の市立美術館庭にある “持明さあ”の像を清掃した。

(中略)容姿に恵まれなかったが、非常に優しく、人々から尊敬され、持明さまのようにありたいものと死後は藩内の婦女の信仰を集めた。また持明院の命日に女の子はおしろい、口紅などを買ってもらい、持明院の石像を化粧した。

(中略)全員で像のまわりの草をとり、ほうきできれいにはいた後、女子職員が用意してきたおしろい、口紅などを “持明さあ”に美しく塗り、もちやカキ、花を供えて霊を慰めた。清掃の途中、美術館に観光バスが二台来たが、職員がさっそく “持明さあ”の由来を説明、観光宣伝に努めた。(後略)

(昭和50年10月5日付 南日本新聞朝刊)


 一部報道では、「命日の化粧直しは昭和29年からの市の女性職員により絶えず続けられている」と紹介されることもあるが、そういった事実は確認できない。美術館、あるいは個人レベルで昭和30年代以降に始められていた可能性はあるが、市主導による化粧直しについては、記述内容から見ておそらくこの時に始まったと見てよいだろう。
 この後化粧直しの報道は昭和53年、54年、57年、58年、60年、62年、63年と続き、こうした流れを受けてか、一般向けの歴史ガイドにもじめさあ像の紹介が徐々に見られるようになる。例えば山川出版の「全国歴史散歩シリーズ」の鹿児島県版では、初版時点でじめさあ像を「史跡」として紹介している。

 一方で、昭和58年には五味克夫氏により初めて「現在ジメサア像と呼ばれるものは、元々は大乗院の白地蔵である」という指摘がなされたが(「清水城跡と大乗院跡-文献資料からの考察-」)、この説を併記する化粧直しの報道は僅かであり、やはり一般に浸透するには至らなかったようだ。

なお余談であるが、五味氏の論考が発表される前の昭和57年南日本新聞の化粧直し記事にて、「石像は明治の廃仏毀釈で大乗院から市立美術館に移されている」とある。記者が『鹿児島ぶり』を知っていたのか、五味氏から直接聞いたのかは定かではない。

 こうして、平成以降には毎年のように10月5日前後には「じめさあ像の化粧直し」が報道されるようになり、鹿児島県民にとってはお馴染みの恒例行事として定着。歴史上の人物としての亀寿はよく知らずとも、特徴的な白化粧のじめさあは何となく知っている──という現在の状況に至ったのである。
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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