戦国島津をもっと深く・もっと楽しく

しまづくめ

花見酒

新名一仁氏 『現代語訳 上井覚兼日記』 インタビュー



2020年11月、ヒムカ出版社より『現代語訳 上井覚兼日記 天正十年(一五八二)十一月~天正十一年(一五八三)十一月』が刊行されました。

上井覚兼は、戦国島津氏が薩隅日三州統一を果たし九州一円に勢力を拡大する、天正年間に活躍した人物です。天正元年(1573)には島津義久の奏者、天正4年(1576)には老中に抜擢され、高城・耳川合戦で大友氏を破り島津氏が日向支配を確立してからは、老中の地位のまま宮崎地頭を兼務し、同時に旧伊東氏本拠地全域を統括する重責を担うようになります。
そうした軍務の傍ら、若い頃より連歌会に臨席するなど芸事を修め、後年には武人のあるべき姿勢や学ぶべき教養についてまとめた『伊勢守心得書』を著すなど、文化人としても足跡を残しています。

上井城址」(鹿児島県霧島市国分上井)。天文14年2月11日、覚兼はこの地で誕生した。上井氏は信濃国諏訪社の系譜とされ本姓を大神、諏訪氏を称していたが、覚兼祖父・為秋の代に領地名をとって上井に名字を改める。覚兼誕生間もない天文17年に上井氏は島津貴久に服属。なお城の麓には、分骨された島津義久墓(徳持庵跡)とその長女・於平墓(淵龍院跡)がある。


天文22年、父・薫兼の移封により薩摩国永吉(鹿児島県日置市吹上町永吉)に移り住み、寺院・文解山(もどきやま)で学問を修めた。元服する永禄2年前後まで永吉で過ごしたとされる。


覚兼は永禄4年の肝付氏との廻城攻防戦で初陣を飾り、大牟禮に置かれた本陣で貴久・義久に付き従った。写真は本陣跡「惣陣が丘」(鹿児島県霧島市福山町)からの眺望。なお、後に覚兼と深い関わりを持つ島津家久もこの戦いで初陣を迎えている。


宮崎城址」(宮崎県宮崎市池内町)。伊東48城の一つに数えられる。天正8年、覚兼は宮崎地頭職と共に近郊の「海江田」八十町を宛行われ、永吉より移った。『上井覚兼日記』の大部分は覚兼が城主となってからの記録であり、その生活が詳細に記されている。

上井覚兼日記は天正2年(1574)8月から天正14年(1586)10月まで記録された27巻から成り(一部欠損あり)、戦国島津氏の意思決定過程や政治・軍事制度について、また当時の南九州の武家の習俗を知る上で極めて重要な一級史料として知られています。
奏者・老中という立場のもと政権中枢で意思決定に携わり、有力な武将として兵を率いて前線を戦い、地頭として領地の統治を行い、一流の文化人として文芸・芸能に興じる──1人の人物が、こうした4つの視点で重層的に、そして「筆まめ」に書き残している点が、他の同時代史料にはあまり見られない、上井覚兼日記の大きな特徴です。

戦国島津ファンにとってはお馴染みと言える上井覚兼日記ですが、これまで現代語訳はされておらず、まさに待望とも言える一冊。著者であり、中世島津氏研究の第一人者である新名一仁にいなかずひと 氏にお話を伺いました。



── この度はご出版おめでとうございます。はじめに、刊行までの経緯をお聞かせ下さい。

新名:当時学芸員として在籍していたみやざき歴史文化館で、2012年に「特別企画展『宮崎城と上井覚兼』」を担当し手応えを感じたことを契機として、その後勤務した宮崎市きよたけ歴史館・宮崎市生目の杜遊古館で「上井覚兼日記を読もう」という講座を担当し、現代語訳普及に取り組んでいました。書籍化を実現したいといくつかの出版社に働きかけはしていたものの中々色良い返答がなかったのですが、今年に入って先述の講座を受講されていたヒムカ出版の渡邊さんに有り難くもお声掛け頂いた、という次第です。

── ヒムカ出版さんはお一人で全ての業務を行われているとか…

新名:2年前に独立開業され、宮崎に根付いた作品を手掛けられてます。企画から編集作業、書店営業、発送業務まで全てお一人でされ本当に大変だと思うのですが、ご尽力の甲斐あって多くの書店さんに卸して頂いてます。付近の書店に見当たらない方も、版元公式紀伊国屋書店honto楽天ブックスamazonなど、各種通販サイトで対応もしていますので、ぜひそちらからお求め頂ければ。

1 2 3
WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

関連記事

You cannot copy content of this page