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しまづくめ

花見酒

新名一仁氏 『現代語訳 上井覚兼日記』 インタビュー

── 「外聞」を保つためのには現実的状況や己の身体を顧みない・・・まさに島津軍の強さの源泉ですね。「自他国之覚」については義弘が田尻氏支援の際に言及していますね。筑後肥前進出に消極的かつ肥後攻略に失敗した直後の義弘ですら強く主張していることから、一際高い価値基準であったことが分かります。
しかし一方で、外交政策の混乱や、なし崩しの戦線拡大などを招いてしまい、島津氏が九州統一の戦いに”引きずり込まれていく”要因にもなっていますね。当の義久自身は、根本領国である三州以外に戦線が広がっていくこの時期、家中の雰囲気をどのように受けとめ、統制しようとしたのでしょうか。


新名:「いけいけどんどん」の雰囲気がまずいということは、高城・耳川合戦直後から感じていたのではないでしょうか。隈本城の城一要からの要請(※)にも、義久は当初消極的でしたし。
だからこそ何度も「談合」を求めて、重臣達の議論とそれによる意思統一、決定事項に責任を持たせることを求めたのでしょう。談合で決めたからには、自分たちで責任をもって作戦を完遂しろ。完遂できそうもないなら、自重するよう求めたのでしょう。慎重さの重要性を説くために、日新斎の遺訓を持ち出すのであり、義久自身の考えを貫徹させられないのは、島津家当主権力の限界とも言えるかもしれません。

(※編注)城氏は先代の親賢が、高城・耳川合戦後に大友氏より離反し島津氏に救援を求めた。それに応え島津氏は隈本城へ派兵するが、城氏は今度は龍造寺氏の圧力に屈し在番衆は撤兵。その後島津氏が相良氏を屈服させ肥後への影響力を強めると、親賢の嫡子・久基を後見する城一要は龍造寺氏と手切れし、再び島津氏に救援を求めた。



── どうしても武家の当主は絶対権力を有すると思いがちですが、島津家はそうではない、と。今回の日記でも、覚兼含め、義久らの意向を無視したり、自身の都合を優先したりする場面が度々ありますね。軍事面でも、期日までに軍勢が到着していないことなど、主従関係にルーズさを感じます。

新名:室町期の守護と国衆の関係がかなりルーズなので、それを引きずっているのかもしれません。西国の戦国大名の全体的傾向としてルーズという指摘もあります。義久自身が、政策決定を重臣たちの「談合」に任せて、自分で上意下達の形で強制するという政治体制ではないので、勝手に動くことはある程度しかたないと思っていたのではないかと思います。

── 島津家としては「よく談合して結論を出すことが重要」を結果的にベストな体制と考えたということでしょうか。

新名:ベストかどうかはともかく、義久はそうするものだと父貴久から引き継いだのではないでしょうか。義弘は「名代」となってから、兄の姿勢に学んでそうします。ただ、その結果豊臣政権に敗れたので、豊臣大名となってからはそうした政治体制に批判的に転じます。現在、とある出版社から『島津義久・義弘』(仮)という本を出版予定ですので、詳しくはそちらをお読みください。



── 改めて覚兼自身について伺えればと思います。義久はそれまでの慣例では老中の資格がなかった覚兼を大抜擢しますね。残念ながら日記はその時期が欠損していますが、登用の背景にはどういったことが考えられるのでしょうか。

新名:天正2年(1574)から天正4年の現存部分は、上井覚兼が「奏者」だったころの日記です。義久の側近くで義久の意向を老中に伝えたり、軍使として指令を伝えたり、外交交渉も担います。恐らく、そうした任務でそつなくこなして義久に認められたのだと思います。
義久の考え方などを側近くに居て理解できているものを老中にした方が、義久としては伊集院忠棟等ほかの譜代の老中をコントロールするにも便利でしょうから。



── 日向制圧後は、「日州両院」の「噯」あつかいに補されますが、これはどのような権限と役割を担っていたのでしょうか。

新名:「日州両院」とは、新納院(宮崎県児湯郡木城町・高鍋町付近)から穆佐院(宮崎市高岡町)の間、つまり宮崎平野のことを指すと思われます。この地域の広域的な行政権を担っていました。
具体的には、鹿児島からの出陣命令や反銭賦課などの様々な指令をこの地域の地頭に伝達すること、鹿児島での「談合」開催の地頭への通達、地頭配下の衆中からの異動願いの鹿児島への取次、地頭間・地頭と衆中などのさまざまなトラブルの仲裁、この地域を通過する僧侶や芸能民への通行許可証発給、この地域の山伏の地位保証や他国での修行・廻国の許可など、多種多様です。こうした業務内容も、『上井覚兼日記』からうかがえます。

── そうした新たな支配地域における重要な役目を任せたり、自身も普段から病に悩まされているにもかかわらず自らの侍医を日向まで派遣したり、老中辞意を強く引き留めたりと、義久は深く覚兼を信頼している様子が窺えますね。

新名:覚兼は義久が貴久から家督を継いだ時に、父から引き継いだ側近のひとりです。若い頃から苦楽を共にし、和歌など趣味も共通するので、義久としては信頼できたのでしょう。またこの時期、老中村田経平が罷免されているため、信のおける老中が減るのは義久としては大変困ると思ったのでは。


天正11年2月、覚兼が義久の病気平癒祈願のため参籠した「法華嶽薬師寺」(宮崎県東諸県郡国富町)。養老2年に「金峯山・長喜院」として興り、後に最澄が「真金山・法華嶽寺」と改め現在に至る。和泉式部が参詣したことでも知られ、伊東氏、ついで島津氏の祈願寺として栄え三国名勝図絵にも往時の姿が描かれている。


── 天正14年、義久により強引に進められた筑前出陣に反発した覚兼ら日向衆は、出陣免除を願い出て義久の怒りを買い、覚兼は召喚された八代で使者を通じ「以後は他国人と見做す」と義久に強く叱責されますね。これも腹心として信じていたからこその失望ということでしょうか。

新名:失望からの怒りと同時に、自身の断固たる意志を家中に示すために、あえて腹心たる覚兼を槍玉に挙げた面もあるかもしれません。覚兼は「遅陣の責任は全て自身にあり、日向衆諸将にはない」と陳謝しています。
覚兼は豊臣氏に破れたあと伊集院(鹿児島県日置市)に移り病に伏せますが、義久は長年の軍労に感謝し「苦労をかけてすまなかった」とわざわざ慰労の手紙を送っており、晩年までその信頼は変わらなかったのではないでしょうか。



── まだまだ質問は尽きませんが……最後に、読者の皆さんが気になる今後の展望についてお聞かせ下さい。

新名:それはもう、売れ行き次第です(笑)。上井覚兼日記は本当に面白い日記ですが、研究者以外が読んで利用することはこれまで極めて困難でした。現代語訳化で多くの方に戦国時代の島津家の動きや戦い方、家臣達の生活の様子を知っていただきたいと思います。その結果、戦国島津氏の知名度、上井覚兼の知名度が上がれば幸いに存じます。

── 続刊を心待ちにしています…!本日はありがとうございました!


今回現代語訳された箇所は、天正6年の「耳川の戦い」、天正12年の「沖田畷の戦い」という大きな事象の狭間に位置し、戦国島津氏を語る上ではクローズアップされることが少ない時期だけに、興味深く読まれた方も多いのではないでしょうか。
日記のここから先は、いよいよ島津氏そして上井覚兼の苦難が本格化していき更に見所が増えていく展開。ぜひ皆さんで応援して、続刊を実現させたいですね!
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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