亀寿と義久、そして猫たち(添田 一平 氏 描き下ろしイラスト)
時として「開祖・忠久以来800年」とも称される薩摩島津氏。その長い歴史にあって、特に激動の時代として知られる戦国期・幕末期、この2つの時代においてそれぞれ、キーパーソンともいうべき女性が存在します。
幕末期は言わずと知れた、江戸幕府第十三代将軍徳川家定の御台所・篤姫(天璋院)。一方の戦国期は、島津家第十六代当主・義久の三女、そして薩摩藩初代藩主・家久(忠恒)の妻である亀寿 ──今年、生誕450年を迎える人物です。
長い歴史を持つ島津氏ですが、島津本宗家の現代まで繋がる系統が確立したのは戦国期から江戸初期にかけてで、島津相州家の貴久が本宗家である奥州家の家督を継承(実質的なクーデター)したことが端緒。その後、貴久の子・義久を経て、その弟である義弘の子・家久に至り「近世島津氏」が確立しますが、この誕生に大きく関わっているのが、亀寿です。
島津家の女性としては篤姫に次ぎ知名度があるといえる人物ですが、夫・家久との不和に代表される逸話や伝説ばかりが先行し、その実像や軌跡についてはあまり知られているとは言い難いのが実情です。
今回の生誕450年にあたり、改めてその生涯についてスポットをあてるべく、島津氏研究で知られる歴史家・桐野作人 氏に解説頂きました。(文中図表・キャプション・一部写真 しまづくめ編)
プロローグ ── 島津三姉妹の一人として
織豊時代、薩摩島津氏は九州のほぼ全域を支配するほど最盛期を迎えた。島津氏の当主は修理大夫義久である。庶家の相州島津家を本宗家にのし上げた日新斎忠良ー貴久父子の正統なる後継者だった。
ただ、義久には弱点があった。男子ができずに娘三人だけだったことである。このことがのちに島津氏の家督問題とそれをめぐる暗闘を引き起こすことになる。
娘たちは、長女御平(1551~1603)が相州家のライバルだった薩州島津家の当主義虎に嫁いだ。二女新城(1563~1641)は貴久の弟忠将の嫡男彰久に嫁いだ。
そして末娘が亀寿(1571~1630)で、この小文の主人公である。なお、亀寿は幼名だとされる(『先君掖官遺抄 稿』)。その後、通称が付けられた明確な形跡がない。
なお、「新城島津家文書」によれば、姉新城宛ての亀寿の消息が3点収録されている。いずれも国分居住時代と思われるが、亀寿は自分の名乗りを極端に省略して、「か」とか「い」と、わずかに仮名一字だけで署名している。「か」は亀寿の略、「い」は何か通称があったか、あるいは単に妹という意味かもしれない。
成人してからは「御料様」(御料人の意味)、島津久保と縁組してからは「御上様」と呼ばれた。義久死後に国分に移ると、「国分様」「国分之御上様」とか呼ばれている。
それでは、亀寿の波瀾に満ちた生涯を見てみよう。
(史料については『鹿児島県史料 旧記雑録』からの引用が多いので、『後編〇』『追録〇』と表記する)
1.「至極の御愛子」 ~本宗家家督に擬せられて
三姉妹の生母は、御平が前夫人(日新斎の末娘)で、新城と亀寿が後夫人の種子島氏である。二人の姉が嫁ぐと、亀寿だけが義久の手許に残された。義久も末っ子の亀寿をことのほか可愛がった。後世の史料だが、義久が亀寿を「至極の御愛子」と見ていたと評されている(「家久公御養子御願一件 伊地知季安考按」)。これらから、彼女の地位は格別高くなっていった。それは女性ながら事実上、本宗家の次の家督(嫡女)に位置づけられていたといっても過言ではなかった。
あまり知られていないが、貴久以前の旧本宗家が没落して藤野家を称していた。天正五年(1577)十二月、同家が代々伝来の家宝の品々を義久の新本宗家に譲渡している(『追録一』1792)。これは貴久以来の新本宗家の正統性を保証するものでもあった。
その譲状によれば、義久には「御幡」と「御ほろ(母衣)」、「御系図」「惣御系図」のほか、「源氏鬚切」「血吸剣」などの太刀十振りが譲られている。「御幡」はいわゆる「時雨軍旗」だろう。
一方、亀寿にも太刀三振りのほか、歴代の伝来文書十五点が譲られている。そのなかには道佛こと二代忠時の自筆仮名書、源頼朝自筆判形(花押)、足利尊氏の島津家本領安堵の御判御教書があった。
藤野家が太守義久だけでなく、亀寿にも家宝を分与した事実は重要だろう。それは亀寿が義久の後継者に擬されていたことを暗示しているのではないか。
亀寿の家督説については、垂水島津家(家祖は日新斎二男の島津忠将)から分出した新城島津家(二女新城の知行地をもとに創出)の史料でも触れている。亀寿の後夫、島津家久が中納言になった寛永三年(1626)以降になるが、次のように書かれている(「末川家文書」23)。
「国分様(亀寿)は新城様御妹様にて御座成され候得共、中納言様御廉中にて、御本家御相続遊ばされ候」
亀寿が本家を相続したというのである。もっとも、これは当時の社会慣習から考えて、女性が実際に家督を継いで大名当主になるということではないだろう。その意味するところは、亀寿の配偶者が次期家督者になる資格を有し、亀寿自身も家督相続の決定に関与する権限を持っているということだと思われる。事実、亀寿はその晩年に家久の家督問題に関与することになる。
そうした地位の高さゆえに、亀寿はその定めに翻弄されていく。