⇒「亀寿、孤独と波瀾の生涯(前編)」
5.父義久の死去と家督をめぐる暗闘 ~不仲の家久、家康を頼る
関ヶ原合戦で敗北した島津氏だが、内憂外患というべきか、対外的には徳川家康との和睦交渉、家中では義久の家督問題が浮上していた、しかも、両者はセットで解決が図られようとしていた。まず、義久は忠恒に家督を譲ったはずだったが、よほどのことがあったのか、義久は「悔返」して忠恒からいったん家督を取り戻したとされる。
「悔返」とは知行や権利などを取り戻すことである。その理由は慶長四年(1599)三月、忠恒が伏見城下の屋敷で筆頭老中の伊集院幸侃を上意討ちしたことしかないだろう。翌四月二十八日、義久は忠恒に譲った家宝のうち、系図はじめ重要な古文書類を召し上げている。家宝の取り戻しは忠恒への不信任表明にほかならなかった(「鹿児島ニ召置御書物並冨隈へ被召上御書物覚帳」)。
この「悔返」により、義久の家督相続者は留保され、いったん宙に浮いてしまった。
一方、和睦交渉では徳川方が島津氏の存続を保証したものの、義弘の処分をどうするか定まっていなかった。徳川方は義久に上京を求めた。しかし、義久は体調が悪いのと、もし家康が義弘に自害するよう命じたならば、上方に滞在していては断り切れないと躊躇した(『紹剣自記』)。
そこで、義久の名代として上京を願い出たのは忠恒である。同七年四月、上京した忠恒は家康から三カ条の島津赦免の起請文を獲得した。
① 薩隅・日向諸県郡の安堵
② 忠恒の家督承認
③ 義弘赦免
② 忠恒の家督承認
③ 義弘赦免
このうち、家督問題で重要なのは②である。忠恒はいったん失った家督を家康という外部の権力を利用して取り戻したのである。
一方、この前後だと思われるが、義久も家督問題で悩んでいたという。いったんは忠恒から家督を取り上げて、二女新城と島津彰久との間に生まれた垂水家嫡男・忠仍(のち信久)を家督にしようと考えてくじ取りをしたという(『後編三』1675、『末川家文書』23)。義久にとって、忠仍は外孫ながら、甥の忠恒よりも血統的には近い。忠仍擁立を支持したのは義久の家老、平田増宗である。
家督問題は家中でなかなか決着しなかったが、忠恒が家康の権力を巧みに利用して家督に復帰したのである。もっとも、その後も義久・義弘・忠恒の「三殿」体制は緊張関係にあり、忠仍擁立派も健在だった。だが、義久の老衰と徳川幕府の後援によって、徐々に忠恒の権力が拡大していく。
忠恒は慶長十一年(1606)六月、家康から一字拝領して、「家久」と改名した。同十四年には琉球を武力で従えることに成功した。翌十五年(1610)、家久は降伏した中山王尚寧を同行、家康・秀忠に拝謁して琉球を「附庸」(属国)として従えるようになり、自らの権威を高めた。
その上京から江戸行きの折、家久は刺客を放って政敵である平田増宗を暗殺する。これにショックを受けたのか、半年後の同十六年(1611)一月二十一日、義久は死去してしまう。享年七十九だった。
「金剛寺跡」(霧島市国分中央)の島津義久墓。義久の墓は、徳持庵(霧島市国分上井)や福昌寺(鹿児島市池之上町)ほか、龍昌寺(霧島市国分中央)など、複数に分骨されたと思われる。
同十五年八月、この江戸行きの途中、家久は駿府で大御所家康と対面した。そのとき、家久は家康に奇妙なお願いをした。二代将軍秀忠と御台所崇源院(お江)の二男国松(のち駿河大納言忠長)を養子にもらい受けたいというのである。その理由として、家久は次のように述べた(伊地知季安「家久公御養子御願一件」)。
「持明様のことはそのときもはや四十一歳に成られ、お子様を持たれるお年も打ち過ぎ、世上には又四郎殿(忠仍)かその子菊袈裟殿をご養子に取り持とうというご家老衆も国分方には残っているという風聞があるからです」
亀寿が四十歳を過ぎたので、もはや子どもはできないことと、垂水家の忠仍を家督に擁立しようとする国分方=亀寿派が隠然たる勢力を保っていたことがわかる。亀寿ももはや自分の子を産むことは諦めていたのだろうが、その代わり自分と血筋がつながる姉の子、すなわち甥の忠仍を擁立したいという気持ちがあったのかもしれない。
「垂水島津家墓所」(鹿児島県垂水市田神)の島津信久(忠仍)墓。信久は跡目争いに敗れた後、行状を咎められ家久より隠居を命じられた。その最期は一説によると毒殺とも言われている。信久はその後、久信と改名か。
「浄珊寺跡」(垂水市新城)新城の墓。夫である彰久は朝鮮で病没、孫(久信の子)の久敏は早世、久章は燻っていた跡目争いにより横死。垂水家も最終的に家久の系統が相続するなど、不幸続きの生涯を送った。
家久はそうした空気を無視できないと感じ取った。なぜなら、家久は義久の目の黒いうちは正夫人の亀寿以外に側室を持つことが、義久への不孝であると憚っていた。義久はあくまで亀寿に男子が誕生するという条件で、家久の家督を承認していたからである。かといって、夫婦仲が悪い二人の間に子どもが誕生する可能性はほとんどない。そのこともまた義久の意に沿わなかった。
この苦境をどう打開するのか。家久は徳川家から養子をもらい受けるというアクロバット的な奇策に打って出たのである。家久が家康の孫国松を養子にすれば、義久も亀寿もその家督を否定できなくなるからである。
同時に、家久はこの養子縁組は家康から断られるだろうと予測していた。なぜなら、秀忠の嫡男竹千代(のち家光)は病弱だったので、二男の国松は跡継ぎ候補として手許に置いておく必要があったからである。
案の定、もう一つの秘策があった。家久側近の伊勢貞昌が家康側近の本多正信と打ち合わせたうえで、家康から「家久はまだ若いから、亀寿には国分に滞留してもらい、側女中を置いたらどうか」という内命を引き出した。
家康のお墨付きは絶大である。義弘の内意を受けた貞昌や老臣たちが動いて、病中の義久を看病するという名目で亀寿を国分に移し、鹿児島の家久には女性三人が側に仕えることになった。島津忠清、鎌田政重、相良閑栖のそれぞれの娘だった。なかでも島津忠清は亀寿の姉御平の子。その娘にとって亀寿は大叔母にあたる。彼女がのちに光久を産む慶安夫人である。
家久が家康に訴えて側室を持てばよいという言質を引き出したのは、舞台裏で義弘ー伊勢貞昌が演出したシナリオだったことがわかる。
「淵龍院跡」(霧島市国分上井)御平墓。於平は義久と先妻である島津忠良四女(つまり義久の叔母)の娘であり、亀寿にとっては異母姉にあたる。長年相州家と対立していた島津薩州家の義虎に嫁ぐ。子の忠辰が朝鮮役での軍務怠慢を咎められ薩州家が改易されると、小西行長や加藤清正に長きにわたって預けられたのち、義久の清正への要求によって帰国し、上井に移り住み晩年を送った。