鹿児島市立美術館の敷地に佇む石像 ── 島津義久三女・亀寿を模したものとして知られるこの像は、亀寿の法名である「持明彭窓庵主興国寺殿」、すなわち「持明様(じみょうさま)」を鹿児島訛りで言い表した「じめさあ(ジメサアとも)」の名で市民に親しまれている。
じめさあは器量が悪い…すなわち不美人ではあったが心優しい人物で民衆から慕われる存在だったと伝わり、命日である10月5日には、その供養として鹿児島市役所女性職員による像の「化粧直し」が恒例行事となっている。
「じめさあ」化粧直し 薩摩藩主の妻の像だとされる石像
(NHKニュース 2021年10月5日配信)
(NHKニュース 2021年10月5日配信)
だが、2021年公開記事「亀寿、孤独と波乱の生涯(後編)」で紹介したように、亀寿が不美人だったという明確な根拠はなく、じめさあ像が亀寿であるという史料も存在しない。石像はその特徴から元々は、島津家の祈祷所・大乗院に存在した「白地蔵」である可能性が高いと、歴史家・桐野作人氏は指摘する。
桐野氏はかつて南日本新聞誌上で連載していた「さつま人国誌」における亀寿についての論考でもこれらの点に触れており、その影響もあってか近年のじめさあ関連の報道や資料では両論併記のケースが見られるようになった。また2021年、亀寿生誕450年を記念して島津家別邸・仙巌園で開催された企画展「みんなのジメサア」において「亀寿美人説」が紹介され、報道でも大きく取り上げられた。
しかしながら、今なお「じめさあ=亀寿」「亀寿=不美人」という認識は支配的であるといえるだろう。
そもそもなぜ、石像と亀寿が結び付けられたのだろうか。亀寿が醜女であったという風説はいつ生まれたのか。どのような経過を辿り「じめさあ伝説」は創り上げられていったのか。
昨年亀寿生誕450年関連の企画を進める中でこうした点に疑問を持ち、筆者なりの調査を試みた。明治から昭和後期にかけての新聞記事や郷土・民俗・観光関連の書籍を調べ、また、鹿児島市役所や鹿児島市立美術館への確認を行った。先行研究が殆ど無いテーマのため手探りの中での調査となったが、断片的ながらも、これまであまり触れられていない事実や経緯を確認することができたので、ここに提示することにした。筆者は史学の専門教育を受けていない素人であり、今回の検証が果たして妥当かは不安が残る所ではあるが、諸賢のご批判を待ちたいと思う。
なお本稿はあくまで、史料から見える事実関係を洗い出すことで現状の認識に一石を投じることが目的であり、関連する特定の人物や団体を批判するものではないことを断っておきたい。また、先述の化粧直しに代表される、「じめさあ信仰」を否定するものでもない。数十年に渡り積み重ねられた、じめさあ像を通しての亀寿への思慕の念は尊重されるべきものだ。
しかしながら、歴史上の人物であり「神」としての側面を持つ亀寿も、一人の人間であることに変わりはない。定着したイメージが仮に事実から逸れたものであるとするならば、それを払拭することにも意義はあるだろう。以上を踏まえてお読み頂ければ幸いである。
※石像については「じめさあ」「ジメサア」「ジメサァ」など複数の表記がありますが、本稿では引用箇所を除き「じめさあ」に統一しています
※本記事は、2021年10月に仙巌園で開催された「みんなのジメサア」へ寄稿した文章を大幅に加筆修正したものです
1.「風の神」
亀寿の像と報道では紹介される石像だが、化粧直しを主催する鹿児島市広報課の「公式見解」は大きく異なり、石像と亀寿の結びつきが後付けであることがはっきり示されている。以下は鹿児島市公式WEBページに掲載されている解説文『持明院様(じみょういんさあ、じめさあ)の化粧直し 』からの引用である。
1929(昭和4)年のある日、当時の第9代樺山可也(かばやまかなり)市長が、市役所の敷地を通りかかった際に、青コケにおおわれた大石があるのに心ひかれ、コケをはらってみると女性の顔が現れました。樺山市長は、風の神さまだと信じ、顔を洗い、チョークでお化粧し、口紅もつけてあげました。これが、この石像への化粧のはじまりだといわれています。
この石像がいつの時代に誰の手で掘られたかは不明ですが、昔から城下の婦女に人気があり、江戸時代に鶴丸城二ノ丸にあったという「持明院様」の石像と結びつけられて、「じめさあ」の像であるといわれるようになりました。
この石像がいつの時代に誰の手で掘られたかは不明ですが、昔から城下の婦女に人気があり、江戸時代に鶴丸城二ノ丸にあったという「持明院様」の石像と結びつけられて、「じめさあ」の像であるといわれるようになりました。
広報課に確認した所この記述は、昭和35年8月17日付南日本新聞夕刊『お化粧紅の由来 持明院さま石像によせて』と題する、郷土史家・久保稲穂氏の寄稿が引用元との回答があり、確かに同趣旨の記述が確認できた(※)。
記述が事実ならば、「じめさあ伝説」はやはり実態とはかけ離れたものということになる。ただし、久保氏の記事では典拠が示されておらず、この段階では確証は得られない。あくまで手がかりとして、同時代の史料を追った。
※なお元記事では「二ノ丸に昔から存在し、子女の敬仰の的であった『持明さま』に結びつくものがあった」としかなく、「持明院様の石像が二ノ丸にあった」という市の記述は誤りと思われる。「二ノ丸の持明さま」が何を指すのかについては後編で触れる。