■ 樺山市長による「再発見」
現在じめさあ像が鎮座する鹿児島市立美術館の区画は、かつては鹿児島城(鶴丸城)の二の丸部分であり、文久2年(1862)から島津久光が入居する。西南戦争の戦禍により全焼した後、明治12年に玉里島津家より当時島津家の経理に関与していた元城下士・岩元基らを経由して鹿児島県に払い下げられ、その後明治23年に鹿児島市会が市役所用地として購入し、明治25年に庁舎が落成。昭和13年に市役所が移転して後は跡地に歴史館が建設されたが昭和20年に戦災により焼失。建物の復元作業を経て、昭和29年9月1日に市立美術館が開館、という経過を辿っている。
筆者が確認した範囲において、石像の文献上の初見は旧市役所時代のもの──前述の久保氏の記事の通り、第9代鹿児島市長・樺山可也との関わりで紹介されている。
昭和4年9月4日付 鹿児島朝日新聞(鹿児島県立図書館 蔵)
市役所玄関前に 石像の「風の神」
旧二之丸時代からの遺物で 彫刻から見て輸入品か
鹿児島市役所玄関の左側に當たるクスノキの下に高さ約五尺五寸大の巨大な石像が建てられてある。昔からこの石像は「風の神」と言い、市役所では常に花を手向けている。
ちょうど本年二百十日…すなわち9月10日のこと、樺山市長は庭前を散歩の折り、偶然にもこの風の神の石像を見た。そして黒江庶務課長にこの由来を糺したが分からない。その内、市長は同課長と石像の彫刻について調査すると、我が国古来の石像に比較しよほど異なっている点が発見された。
第一に、この石像の眼球が現代の石膏細工や銅像の彫刻の様にエグリこまれて刻んである。我が国古来の石像では多くの眼球が飛び出ている様に刻まれている。その他頭髪が長く五分に分かれているし、またその手に携えているハタキみたいなものの握り様などがいかにも日本人の握り様と全然異なっている。こうした点などを総合して外国の輸入品ではないかと市長は断定しそうである。
さてこの風の神の由来についての一説に「島津久光公が釣魚がなかなかお好きなので、魚釣りに出かけられる場合海上が荒れては困るというのでこの風の神を建立し釣魚に出かけられる時は、いつもこの神に海上の平穏無事を祈って出かけられたもので、天候の平穏祈願のため建てられたもの」だと伝わる。
旧二之丸時代からの遺物で 彫刻から見て輸入品か
鹿児島市役所玄関の左側に當たるクスノキの下に高さ約五尺五寸大の巨大な石像が建てられてある。昔からこの石像は「風の神」と言い、市役所では常に花を手向けている。
ちょうど本年二百十日…すなわち9月10日のこと、樺山市長は庭前を散歩の折り、偶然にもこの風の神の石像を見た。そして黒江庶務課長にこの由来を糺したが分からない。その内、市長は同課長と石像の彫刻について調査すると、我が国古来の石像に比較しよほど異なっている点が発見された。
第一に、この石像の眼球が現代の石膏細工や銅像の彫刻の様にエグリこまれて刻んである。我が国古来の石像では多くの眼球が飛び出ている様に刻まれている。その他頭髪が長く五分に分かれているし、またその手に携えているハタキみたいなものの握り様などがいかにも日本人の握り様と全然異なっている。こうした点などを総合して外国の輸入品ではないかと市長は断定しそうである。
さてこの風の神の由来についての一説に「島津久光公が釣魚がなかなかお好きなので、魚釣りに出かけられる場合海上が荒れては困るというのでこの風の神を建立し釣魚に出かけられる時は、いつもこの神に海上の平穏無事を祈って出かけられたもので、天候の平穏祈願のため建てられたもの」だと伝わる。
①石像は明治前期から存在
樺山市長が石像を発見したわけではなく、現地では昔から認知されていたようだ。また、石像に関する資料が記録にない様子を踏まえると(※)、庁舎が建つ以前──すなわち明治25年以前から現地に石像は存在していた可能性が高い。あれほど巨大な石像が、市役所玄関前という目立つ場所に移設されて何も経緯が記録されていない、ということは考えにくいだろう。
一方、見出しにある「旧二の丸時代から」については、薩摩藩政期のことなのか、廃藩後から西南戦争で焼失するまでか、あるいはその後の山林原野の状態だった頃を指すのかについてはよく分からない。久光との関わりが事実ならば、大乗院廃寺の明治2年から明治9年の間に移設されたとも考えられるが、島津家の祈祷所であった大乗院において尊崇を集めていた白地蔵を久光が認知していないのか、という疑問は残る。
※当時の鹿児島市役所に総務課はなく庶務課が諸記録の管理部署だったと思われる
②通称「風の神」
こちらも同様に、樺山市長が命名したわけではなくこの時点で通称として定着していることが分かる。おそらく、樺山市長が石像を「再発見」したことが影響し後年になって来歴が樺山市長由来へと変質したのではないか。あるいは、もともと海風を司る神だったことにちなみ、海軍出身の樺山市長が石像のご利益を再定義したことで「創始者」として位置づけられた可能性も考えられるだろう。
③化粧のまだ風習はなかった?
花を手向け敬われている様子は窺えるが顔化粧については記述がない。なお久保氏の記事にある「樺山市長が化粧を始めた」という裏付けがとれる史料は現段階では確認ができなかった。
④石像が携える謎の棒
樺山市長の「日本の石像とは異なり輸入品ではないか」という推測については興味深いものの、筆者には検討するだけの知識がないため本稿では取り扱わない。だが「ハタキみたいなものを握っている」という指摘は興味深い。
筆者もこの記事を見るまでに気に留めていなかったが、石像は確かに棒状の物を抱えている。ただ、棒先に何もついておらず(風化して削れた可能性もあるが)ハタキあるいは箒というよりは杖──あくまで個人的な感想であるが、手を地面に向ける握り方から見て、盲人が杖をついている姿にも思える。
「大乗院の白地蔵」と「じめさあ像」を繋ぎ、その来歴を考える上で貴重な史料と言える記事。何よりも重要なポイントは、昭和4年時点で石像はじめさあ像とは呼ばれておらず、亀寿と結びつけられるような要素も存在しないことがはっきり示されている点だろう。