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花見酒

「つくられた」じめさあ伝説 ~亀寿信仰の実像~(前編)



■ 悪病平癒の白化粧

 白地蔵改め「風の神」として、当時信仰を集めていた石像の様子は、香川県出身の宮武省三という人物が昭和10~13年に鹿児島に滞在した際の回顧録『鹿児島風物志』でも確認できる。
 宮武は当時の海運大手・大阪商船に勤め要職を歴任する傍ら民俗学に関心を持ち、生物・民俗学者の南方熊楠に弟子入りし民俗関係の著作も複数ある人物で、『鹿児島風物志』では滞在時に見聞きした鹿児島の風俗について自身の知見を交え紹介しており、石像は「除疫・治病の禁厭並俗習」の項目で触れられている。

○風の神

 鹿児島ではオネッ(編注:鹿児島一部地域での百日咳の俗称)に罹る者が多いと見え、あちらこちら百日咳の神さんというが祀られ、(中略)異彩を放っているのは旧市役所敷地内にある風の神さんと呼ばれる石像である。これは女像で、祈願者も絶えないのか、いつもそのお顔は白粉でよく化粧させられていた。
 このように像を白粉で化粧することは諸国で見られるもので、例えば摂陽落穂集巻三にも「西の宮恵美須の北に小宮あり、内に納る像は三崴許なる小児の坐したる人形なり、是神にあらず、毎年正月に白粉をもって厚三四分ばかり顔にぬりおくなり、此辺に其年生れたる小児宮参の時、此人形の顔をなでてその白粉を小児の顔にぬるなり。是ほうその悪病を除くといふ」との記事があるが、鹿児島のはオネッというても風は万病の元というから、弘く病難除けの儀で信心者のする業であろうと想っている。

宮武省三『鹿児島風物志』


 樺山市長がきっかけなのか、自然発生的なものなのかは分からないが、この時には大乗寺時代と同じく、石像への化粧が行われていたようだ。
 宮武の指摘する通り、いわゆる「化粧地蔵」の風習は全国に見られ、疫病退散や安産祈願など、健康に関わるご利益を司るものも多い(東京都港区の「御化粧延命地蔵尊」、今治市の「乳地蔵」、足利市の「白地蔵」など)。
 海難消除ではなく悪病平癒へと”ご利益”が変化していることついては、風の神と呼ばれるものは字義通り「風を司る神」というケースもあれば病難をもたらす「疫病神」という事例もあり、同音ゆえに像にまつわる祭祀が変わる、あるいは加わることは十分ありえ不自然ではない。

 いずれにせよ、ここでもまだ亀寿との関連は見られない。石像がこの地に移って50年以上、少なくとも昭和10年代中頃まで「じめさあ像ではなかった」ということを強調しておきたい。
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WRITER 花見酒

島津義弘のお膝元、姶良市加治木出身・在住。「戦国島津をもっと盛り上げたい!」をテーマになんだか色々やってます。

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