2.祀り上げられた亀寿
■ 亀寿説の萌芽「風の神」として当時の鹿児島市民に定着していた石像だが、少なくとも昭和30年代初頭には「石像は亀寿である」「化粧をすると美人になる」という巷説が広まっていたことが確認できる。
下記は、鹿児島市立美術館収蔵の、じめさあ像関連の情報を集めたスクラップブックに保存されていた記事からの引用である。
ご難の“風の神様”
みめ美しくありたいと思うのは人間共通の願いだが、女性のそれは”執念”に近いものがある。鹿児島市立美術館の片隅にある高さ1mあまりのずんぐりとした通称“風の神様”の石像は旧藩時代から鶴丸城二の丸にあったもの。この顔を白塗りにすると船乗りは“順風満帆”で遭難しないとか、カゼをひかないとかアレコレ俗信の対象になっている。
一方この像は醜女に生まれながら精神修養と身だしなみで“美女”になることができたある殿様の内室の伝説と結びつき、“美女への願い”をこめてひそかに石像の顔を塗りに来る女性が絶えないという。ところで美術館の谷口館長さんは「この像は右手にホウキらしきものを持っているので、本当は“寒山拾得”の拾得ではないか」と話している。
みめ美しくありたいと思うのは人間共通の願いだが、女性のそれは”執念”に近いものがある。鹿児島市立美術館の片隅にある高さ1mあまりのずんぐりとした通称“風の神様”の石像は旧藩時代から鶴丸城二の丸にあったもの。この顔を白塗りにすると船乗りは“順風満帆”で遭難しないとか、カゼをひかないとかアレコレ俗信の対象になっている。
一方この像は醜女に生まれながら精神修養と身だしなみで“美女”になることができたある殿様の内室の伝説と結びつき、“美女への願い”をこめてひそかに石像の顔を塗りに来る女性が絶えないという。ところで美術館の谷口館長さんは「この像は右手にホウキらしきものを持っているので、本当は“寒山拾得”の拾得ではないか」と話している。
(発行媒体・発行日不明)
発行日記載箇所がカットされメモもなく具体的な発行日は不明であるが、鹿児島市立美術館の初代館長である谷口館長の談話がある以上、美術館が開館した昭和29年9月1日以降の記事であり、また理由は後述するが、昭和35年以前に書かれた可能性が高い。
また、「ある殿様の内室」とぼかされているが、特徴から考えて亀寿を指していることは間違いない(詳細は後編で解説する)。
なお谷口館長が言及している寒山拾得とは、中国唐代の高僧で詩人としても知られる二人組のことである。禅画の画題でもよく用いられるため多くの絵が残されている(Googleイメージ検索)が──なるほど確かに、石像の風貌から連想しても不思議ではない。
このような風説が生まれたきっかけ、これについては残念ながら史料は確認できていない。ただ、一つの手がかりとして以下の証言がある。
以前、郷土史の先輩に聞いた話であるが、終戦直後、丸焼けになった鹿児島の市民たちは、(中略)焼けた歴史館の壁の利用して仮住まいした市民も何人かいたが、その中に一人の狂信的な女性がいて、突如「この石像こそはジメサアである」と言い出した。それからこの石像がジメサアと呼ばれるようになったと。狂信的という表現が信仰上のものか精神上のものだったかは、これを語った先輩が故人となってしまった今はもう知るすべがない。
豊増哲雄 『古地図に見るかごしまの町』
真偽の程は不明であるが、確たる根拠もなく亀寿という属性が石像に付与された背景としては、こうした突発的な”事件”が発端とならない限り説明し難いのも確かである。
いずれにせよ昭和30年代初頭、徐々に「亀寿の像」としてのあり方が存在感を増し、受容されつつあることが分かる。しかしこの時点で石像はあくまで風の神であり、俗説として亀寿と関連付けられていたに過ぎない。
しかし昭和35年、石像が風の神からじめさあ像へと”転身”を遂げる決定的な出来事が訪れる。