3.じめさあ伝説の定着
■進む既成事実化昭和35年の納涼美術まつりにて、悲劇性を増すためか「二目と見られぬ醜女・せむし・嘲笑に耐えかねて自刃・怨霊となって人を襲った、島津の姫君の像」と多くの事実無根・出所不明の「設定」を盛られてしまった石像だが、翌36年にはより具体的なエピソードを交えた怪談話として、南日本新聞の社会面に大々的に紹介されてしまっている。
①自分の血の繋がる者を当主としたかった義久は、家督相続をたてに亀寿を家久に押し付けた。家久も醜い亀寿は嫌だったが、島津70万石の魅力には勝てず妻として迎えたものの、正妻の地位のみ与え近くに寄せ付けなかった。
②醜いが故に美への憧れは強く、夫家久に隠れては鏡に向かっていた。ところがある日、髪を解き化粧をしている最中にガラリと後ろの襖が開くと鏡に映ったのは家久の嘲笑に満ちた顔。あざ笑いを込めて舌を出すと、ピシャリと襖を閉め切った。最愛の夫から侮辱を受けた亀寿はよろめくように二ノ丸の庭に下り立ち、自ら喉を突き刺し果てた。
③福昌寺に葬られ、霊は鶴嶺神社に祀られた(編注:鶴嶺神社は明治2年創祀)。しかし恨みは深く、「二ノ丸城に帰して…」と毎晩福昌寺の僧たちに訴える。たまりかねた僧2人が念仏を唱えつつノミをふるい、持明院の願いを込めて美しい顔を掘り上げ二ノ丸に安置した。
④それでもなお亡霊はか細く泣くように「白粉をつけてたもれ…」と訴え、この話が城下に伝わり哀れを呼んだ婦女たちによって人知れず石像に白粉をつけられるようになり、いつのまにか彼女の霊を慰めれば美女に生まれ変わるという説が広まった。
⑤大東亜戦争の戦災で焼け出され、化粧をする人もなくなり、苔むした石像。打ち捨てられた持明院の霊を慰めようと、今年も盛大な納涼美術まつりが開催された。
②醜いが故に美への憧れは強く、夫家久に隠れては鏡に向かっていた。ところがある日、髪を解き化粧をしている最中にガラリと後ろの襖が開くと鏡に映ったのは家久の嘲笑に満ちた顔。あざ笑いを込めて舌を出すと、ピシャリと襖を閉め切った。最愛の夫から侮辱を受けた亀寿はよろめくように二ノ丸の庭に下り立ち、自ら喉を突き刺し果てた。
③福昌寺に葬られ、霊は鶴嶺神社に祀られた(編注:鶴嶺神社は明治2年創祀)。しかし恨みは深く、「二ノ丸城に帰して…」と毎晩福昌寺の僧たちに訴える。たまりかねた僧2人が念仏を唱えつつノミをふるい、持明院の願いを込めて美しい顔を掘り上げ二ノ丸に安置した。
④それでもなお亡霊はか細く泣くように「白粉をつけてたもれ…」と訴え、この話が城下に伝わり哀れを呼んだ婦女たちによって人知れず石像に白粉をつけられるようになり、いつのまにか彼女の霊を慰めれば美女に生まれ変わるという説が広まった。
⑤大東亜戦争の戦災で焼け出され、化粧をする人もなくなり、苔むした石像。打ち捨てられた持明院の霊を慰めようと、今年も盛大な納涼美術まつりが開催された。
連載「九州の怪談⑯ 持明院像由来記」(昭和36年8月23日付 南日本新聞朝刊)より要約・抜粋
こうした石像をじめさあ像と位置づける流れに対し、識者からの反論は当然あったようだ。
鹿児島県文化財専門委員(現在の鹿児島県文化財保護審議会の前身組織)の築地健吉氏は、新聞紙上でこのように指摘している。
市美術館内、南洲翁銅像うらの石像をジメさぁと思っている人が多いが、あれは風の神様と信仰され、むかし樺山市長など軍関係の人々が崇敬奉仕していたと聞いている。お化粧してあげるのは、田之神像など、お祭りの時体をベニガラで顔を白粉でお化粧してあげるのと同様な意味があると思われる。
『随想 美容の神様 ジメさぁ(持明院さま)の話』(発行媒体・発行日不明※)
※記事中に「知人より福岡・真髪神社の第四回秋季大祭の冊子を貰った」と記載がある。真髪神社は昭和29年12月1日創建であり、第四回秋季大祭の挙行は少なくとも昭和33年以降。また築地氏は昭和46年まで文化財専門委員。以上のことから、昭和33年末から昭和40年代前半の間に掲載された記事だと思われる。築地氏は県文化財専門委員会に昭和28年の発足当初から所属。また戦後再建された鹿児島民俗学会の初期メンバーかつ鹿児島史談会の会長でもあり、新聞紙上での複数の連載や著作がある(また、前述の『鹿児島風物誌』を発行した鹿児島郷土会代表でもある)、南日本民俗文化研究の第一人者で、当時の重鎮と言ってよい人物である。
しかしこうした識者の発信も、一般に広がりつつあったじめさあ像伝説をかき消す有効打にはならなかったようだ。
「納涼美術まつり」の開催が確認できるのは昭和36年の第2回(鹿児島県美術協会と二ノ丸町内会の共催)が最後であり、定期行事までには至らなかったようだ。しかし、民間主導で始まったじめさあ伝説は、時代を経るにつれ由来が変化しながらも「権威」の後押しを得て既成事実化していく。
昭和30年代後期から昭和40年代にかけては、南日本新聞社取締役(のちに社長)・鹿児島テレビ放送株式会社専務取締役にして、鹿児島県県史料刊行委員・鹿児島市史編さん委員などを務めた川越政則氏の著書に度々じめさあ像が紹介されている。
亀寿は、島津家18代家久公の夫人であった。子がなかったので、家系がたえるのを恐れ、家久にすすめ、ほかに子をもうけ、それを実子のように教育したという。亀寿は、容姿にはめぐまれなかったが、心が美しく、嫉妬したり、とらわれたりするところがなかったので、鹿児島の婦人は、戦前まで「持明サア」と尊敬してきた。(編注:文中にじめさあ像写真)
川越政則『南日本風土記 』
庭にはジメサアの石像がある。顔に化粧をしてあげると、その人は美人になるという。
川越政則『鹿児島の旅 』
田ノ神をのぞけば、鹿児島にある石像でもっとも人間臭いのはこれだろうか。旧藩時代、島津氏の鶴丸城、二ノ丸にあったものだという。ジメサアとは18代島津家久夫人 持明院のことである。生まれつきがみにくく夫と同居していながらしっとぜず心がきれいだったという彼女、そのおもいがこの石になったというのであろうか。(中略)石像のお顔にまっ白くお化粧をしてあげると、美人にしてもらえるというのである。
風の神ともいう。そのへんのことはたしかでない。鹿児島市立美術館の庭に、なまなましい野趣と力量感にあふれたこの像が坐っていると、なにかチグハグな、その違和感が一種の新鮮さを振りまく。
川越政則『鹿児島の美 -南日本民芸図説-』
「家久に侮辱され自害した」などといった明らかな誤りはさすがに消え去り、代わりに「人格者」「家族思い」であったというエピソードが登場。現在に伝わるじめさあ伝説の大枠はこの時期には固まっていたようだ。
また、石像の傍らに看板が設置され美術館としての「じめさあ像オフィシャル化」が進んでいることも分かる。昭和50年発行の『鹿児島美術館 観覧のしおり』には展示品目の一つとして、じめさあ像の項目があり「器量は優れなかったが心優しい人物で万人に尊敬された」「光久を実子のように育み立派な大名とした」「器量は恵まれずとも心は持明様のようにありたいと願う婦女子から藩政期より信仰を集め、今もお顔にお化粧の絶えたことがない」と紹介されている。